1.平和を訴えます | ||||||||||||||
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こんにちは。武田信廉(たけだのぶかど)でーす。
「ノブちゃん」と呼ぶのはやめてくださいねー。
長兄・晴信のほか、次兄・信繁(のぶしげ)、三兄・信基(のぶもと)、弟の信是(のぶこれ。松尾信是)・信実(のぶざね。河窪信実)・信竜(のぶたつ。一条信竜)ら、みーんな「ノブちゃん」ですからー。
号は逍遥軒(しょうようけん)といいます。
シウマイ屋じゃないですよっ。
「逍遥」というのは、明治〜大正時代の作家・坪内逍遥が名乗った理由と同じで、ブラブラしてるってことですからー。つまり、遊び人ってことですからー。えへへ。自分で言うのは気が引けますねー。
武田信廉 PROFILE | |
【生没年】 | 1532?-1582 |
【別 名】 | 孫六・刑部少輔・逍遥軒・武田信綱 |
【出 身】 | 甲斐国(山梨県) |
【本 拠】 | 信濃高遠城(長野県伊那市) |
【職 業】 | 武将・画家 |
【 父 】 | 武田信虎 |
【 母 】 | 大井氏 |
【 師 】 | 快川紹喜・長谷川等伯ら |
【兄 弟】 | 武田信玄・武田信繁・信基・信実・信竜 ・定恵院・南松院・祢々・亀・菊ら |
【義兄弟】 | 今川義元・穴山信友・諏訪頼重 ・大井忠成ら |
【 甥 】 | 武田勝頼・義信・信豊・仁科盛信ら |
【仇 敵】 | 織田信忠ら |
【作 品】 | 「武田信虎像(大泉寺蔵)」 「大井夫人像(長禅寺蔵)」 「十二点図(高野山成慶院蔵)」 「十王図(同蔵)」など。 |
【墓 地】 | 逍遥院(山梨県甲府市) |
私の兄弟はみんな武将として有能でした。
特に長兄晴信のち信玄の有能っぷりはみなさま御存知の通りです。
内面だけじゃあありません。外見には最強の戦国大名たる貫禄がありました(決して格好が良いと言っているわけではありません。念のため)。
次兄信繁もそれなりに有能でした。
いや、ある意味、長兄以上だったのかもしれません。
だからこそ、父・信虎(のぶとら)は次兄をかわいがり、長兄を邪険にしたのでしょう。
でも、私の場合は父から邪険にもされませんでした。
「お前はいじってもおもしろみのないカスじゃ」
そうです。
私は剣を振るえば、誰よりもヘタクソでした。
弓矢を射れば、前に飛びませんでした。
馬に乗れば、すぐ落ちました。
書物を読んでも、なかなか頭に入りませんでした。
「なんだ、こんなもーん!こんなもーん!」
私はそれらを片っ端から放棄しました。
そしていつしか、
「戦争は嫌いだー!」
なーんて主張するようになりました。
「バカか!」
世は戦国時代です。
いくらそんなことを主張しても、周囲から理解されるはずありませんでした。
私は軍学書『孫子(そんし)』の一番重要な部分だけは覚えていました。
「孫子だって、戦争をしないことが最上の策だって言っているじゃないかー!」
長兄は笑っちまいました。
「孫子は戦争を否定してはいない」
「やらないほうがいいってことは、否定しているのと同じだー!」
私は絵や書に走りました。
書は達筆で、特に絵は天才と呼ばれていました。
次兄は私の絵を見て惜しがりました。
「これほどの才能がありながら、なぜ武芸に生かせないものか」
長兄は笑いました。
「いや。いずれ信廉の才能が生かされるときが来るであろう」
長兄はすでにこのときから天下をねらっていたのかもしれません。
あるとき、真剣に絵を描いた私を見て、母・大井夫人が言いました。
「信廉は普段はバカ面をしていますが、絵を描いているときだけは晴信にソックリですね」
私はなんと返していいのかわかりませんでした。