4.冥土に逝きます

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ひき肉偽装事件&年金問題
1.平和を訴えます
2.影武者やります
3.北条を騙します
4.冥土に逝きます

 天正四年(1576)四月、長兄の死から丸三年が過ぎました。
『自分が死んだ場合、三年間は死を隠すように』
 長兄の秘喪の期間が過ぎ、甲斐の恵林寺
(えりんじ。山梨県甲州市)で盛大な葬儀が執り行われたのです。
 こうして武田勝頼がその子・信勝
(のぶかつ)の後見人として正式に武田家家督を継承し、私は影武者を「解任」されました。
 私にとっては解放でした。
「これからは好きな絵ばかり描いてすごしたいのだが――」

 しかし、世間がそうはさせてくれませんでした。
 この前年に日本史上名高い一大決戦が行われていたのです。
 そうです。
 長篠の戦です。
 この戦いで勝頼率いるわが武田軍は織田・徳川連合軍に完敗、馬場信房・山県昌景・内藤昌豊
(ないとうまさとよ)・真田信綱(さなだのぶつな。幸隆の子)・土屋昌次(つちやまさつぐ。昌続)など、武田二十四将に列している多くの名将たち(あ、これにはなぜか私も列していますが……)が戦死し、武田家は凋落(ちょうらく)してしまいました(「銃器味」参照)

武田二十四将 (異説あり)
武田信繁(典厩・左馬助)
武田信廉(信綱・逍遥軒・刑部少輔)
一条信竜(上野介・右衛門大夫)
穴山信君(梅雪・左衛門大夫・玄蕃頭)
板垣信方(信形・駿河守)
甘利虎泰(備前守)
飯富虎昌(兵部少輔)
馬場信房(信春・信勝・美濃守・民部大輔)
山県昌景(三郎兵衛尉)
真田幸隆(弾正忠・一徳斎)
真田信綱(源太左衛門尉)
秋山信友(虎繁・晴近・伯耆守)
高坂虎綱(春日虎綱・香坂昌信・弾正忠)
内藤昌豊(修理亮)
土屋昌次(昌続・右衛門尉)
原虎胤(虎種・清岩・美濃守)
原昌胤(隼人佑)
横田高松(備中守)
三枝守友(勘解由左衛門)
多田満頼(淡路守)
小幡虎盛(織部・山城守)
小幡昌盛(豊後守)
山本晴幸(勘助・勘介)
小山田信茂(左兵衛尉・越前守)
または武田勝頼(諏訪四郎・伊奈四郎)

「天下の形勢は逆転した」
「戦国の盟主は武田ではなく、織田だ」
「やっぱり武田も信玄がいないとダメだな」
 そうです。
 改めて公表するまでもなく、いつしか長兄の死は日本全国に広まっていたのです。

「どうすればいいのだ?」
 悩んだ勝頼は、越後の飛竜・上杉謙信と結ぶことにしました。
 が、その謙信は天正六年(1578)に死んでしまいましたので、謙信の養子・上杉景勝と結びました。
 ところが景勝は、同じく謙信の養子だった北条氏政の弟・上杉景虎
(かげとら)を討って強引に跡を継いだ男なのです。
 氏政は激怒しました。
「武田は北条を裏切った! 武田とは絶交だ!」
 氏政は徳川家康と同盟を結びました。
 武田家中は動揺しました。
「ああ、これで武田は織田・徳川・北条、三方を敵に囲まれた」
 信濃木曽
(きそ。長野県木曽町)の領主・木曽義昌(よしまさ)織田信長に降伏すると、信長は嫡子・信忠(のぶただ)に命じました。
武田勝頼めにとどめを刺しに行け!」
「御意!」

 天正十年(1582)二月、織田信忠は武田討伐のため出陣しました。
 同時に駿河から徳川が、相模から北条が甲斐へ侵攻します。もはや武田に勝ち目はありませんでした。
 私は居城・高遠城を捨てて急いで甲斐に逃げ帰ると、穴山や一条信竜らとともに勝頼を説得しました。
「どうか降伏を!」
 が、勝頼は頑固でした。
「降伏はせぬ。降伏するくらいなら、一人でも多く敵を斬
(き)り殺して死ぬ!」
 穴山は勝頼を見限りました。
「こんな主君はダメだ」
 で、自分だけさっさと徳川に投降してしまいました
(「穴雪味」参照)

 私も一条とともに織田に投降することにしました。
 しかし、織田方の雑兵たちに捕まってしまいました。
「許して〜」
「命だけはお助けを〜」
 私たちは懇願しましたが、雑兵たちは許してくれませんでした。
「ダメ!おれたちはあんたたちの首を信忠様に差し出して、出世したいのっ!」

 一条は殺されました(一説に一条は徳川方に殺されたともいう)
 それでも私は必死で命乞いしました。
「私は絵さえ描いていられればいいんだー!私に大作を描かせてくれぇー!」
「往生際の悪いヤツだ」
 雑兵たちは相手にしてくれません。

 私は最後の手段に出ました。
 いつも持っていた絵筆を握り締めてこう言ったのです。
「わし、実は、信玄ですよっ!」
 雑兵たちはドッと笑いました。
「ウププ! 信玄だってよー!」
「バカかこいつはー!」
「やっちまえー!」

 結局、私は殺されました。
 享年は不明ですが、五十一ともいわれています。

 三月十一日、ついに力尽きた勝頼は、甲斐天目山(てんもくざん)山麓(さんろく)の田野(たの。山梨県甲州市)で一族ともども自害しました。享年三十七。
 ここに鎌倉時代から甲斐を治め続けてきた名門武田氏
(「武田氏系図」参照)は滅び去ったのです。

[2007年6月末日執筆]
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