69.ニセ味 基礎用語集

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上杉景勝(うえすぎかげかつ)
 (1555-1623) 武将。大名。大老。謙信(けんしん)の養子。1578-1579御館(おたて)の乱で義兄・上杉景虎(かげとら)を討って家督を継承するが、1584豊臣秀吉に服属、陸奥会津(あいづ)百二十万石を領し、豊臣政権の五大老に列するが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に歯向かったため、戦後出羽米沢(よねざわ)三十万石へ飛ばされた。

上杉謙信(うえすぎけんしん)←上杉政虎(まさとら)←上杉輝虎(てるとら)長尾景虎(ながおかげとら)
 (1530-1578) 武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。1548家督を継ぎ、1550越後国主となり、信濃北部に進出した甲斐の戦国大名・武田信玄と数度交戦(川中島の戦)、関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)の頼みで関東の戦国大名・北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、1561関東管領を継承、1573越中を平定して織田信長を攻めるが、1578急死した。
撤退味 地震味2

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味 大雪味

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置頃に始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。世界文化遺産。

高野山(こうやさん)
  和歌山県高野町にある標高千メートル内外の山地。真言宗(しんごんしゅう)総本山・金剛峰寺(こんごうぶじ)がある。

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。守護(しゅご)大名から移行したもののほか、守護代や国人(こくじん)から台頭したものもある。

武田勝頼(たけだかつより)=諏訪(すわ)勝頼
 (1546-1582) 武将。甲斐等領主。信玄(しんげん)の子。父の死後も勢力を拡大したが、1575長篠(ながしの)の戦で織田信長・徳川家康連合軍に大敗して衰退、1582天目山(てんもくざん)の戦で敗れて自殺した。惨敗味2
人質味ニセ味

武田信玄(たけだしんげん)←武田晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦で義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦で徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという説もある)。
撤退味 大雪味3 惨敗味 ニセ味

坪内逍遥(つぼうちしょうよう)
 (1859-1935) 小説家・劇作家。写実主義を主張し、「早稲田文学」を創刊、新楽劇を提唱し、文芸協会設立に参加、文学論『小説真髄(しょうせつしんずい)』小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』史劇『桐一葉』などを著した。

天台宗(てんだいしゅう)
 仏教の宗派。隋(ずい)の僧・智(ちぎ)を祖とし、法華経を基とする。日本には805最澄(さいちょう)が将来し、桓武(かんむ)天皇によって国家公認の宗派となった。十世紀末に山門派(さんもんは。延暦寺)と寺門派(じもんは。園城寺)に分裂した。

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4 籠城味

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。 怪談味2 地震味4 日朝味7 芸人味 花見味 変節味

長篠(ながしの)の戦=長篠合戦
 織田信長・徳川家康が三河長篠(愛知県新城市)で武田勝頼(たけだかつより)の侵攻を食い止めた戦い。1574勝頼は徳川領に侵攻、遠江高天神城(たかてんじんじょう。静岡県掛川市)を落とし、1575三河長篠城を攻囲、城将・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は家康に助けを求め、家康は信長に救援を依頼、織田・徳川連合軍は設楽原(したらがはら)に馬防柵(ばぼうさく)を設け、足軽鉄砲隊で迎撃、当時最強といわれていた武田騎馬隊を壊滅させた。以後、武田氏は衰退し、1582滅亡する。
 人質味

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

長谷川等伯(はせがわとうはく)
 (1539-1610) 画家。長谷川派の祖。「本法寺日尭上人(にちぎょうしょうにん)像」「三玄院襖絵(さんげんいんふすまえ)」「智積院(ちしゃくいん)襖絵(子の久蔵と共作)」「松林図屏風」「枯木猿猴図」などを描き、狩野派に対抗した。ロス味

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