1.二刀流だらけ | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2021>令和三年8月号(通算238号)二刀味 二刀流考案1.二刀流だらけ
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新免弁之助(しんめんべんのすけ)、後の宮本武蔵(宮本玄信・政名・二天)は、生まれながらの二刀流である。
出生地からして、美作説と播磨説がある。
美作宮本(岡山県美作市)には、弁之助の父・新免無二(しんめんむに)が住んでいた。
播磨平福(兵庫県佐用町)には、弁之助の母・別所率子(べっしょよしこ)が住んでいた。
二人は早くに破局し、率子は平福に住む田住政久(たずみまさひさ)の後妻になった。
弁之助は離婚した父母の家を行き来していたため、出生地が「二刀流」になったようである。
新免無二は弁之助の実父ではない説がある。
養父であれば、他に実父がいたことになる。
実は無二ではなく、政久の子だったのであろうか?
そうなると、離婚理由も異なってくる。
いずれにせよ、弁之助は父親も「二刀流」だったのである。
別所率子も実母ではない説がある。
弁之助を生んですぐに亡くなった新免於政(おまさ)こそ生母だという。
於政は無二の主家にあたる竹山城主・新免宗貞(むねさだ)の娘というが、弁之助が生まれた天正十二年(1584)には四十九歳という高齢なので、当時としては無理がある。
ただ、率子は実母ではなくても養母には違いないため、母親も「二刀流」だったことになる。
後の話になるが、晩年に細川家に士官した武蔵は、若い僧・春山(しゅんざん)とできていたうわさがある。
春山は武蔵が死ぬ前、愛刀・宇田国宗(うだくにむね)を譲り受け、武蔵の葬儀の引導役も務めているが、このうわさが本当なら性癖も「二刀流」だったことになる。
ただし武蔵には女性方面の話がないため、「ほんまもん」なら「二刀流」にはなりえない。
では、剣術の二刀流はいつ生まれたのであろうか?
弁之助が九歳の時に荒牧神社(あらまきじんじゃ。荒巻神社。後の讃甘神社。岡山県美作市)の太鼓から思い付いたとされている(諸説あり)。