5.藤原基経

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日本は欧州を目指すべきか?
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5.藤原基経

 貞観十四年(872)九月二日、摂政太政大臣藤原良房は死んだ。享年六十九。
 朕は喜んだ。
(やった!これで権力奪還だ!)
 が、良房は生前に手を打っていた。
 養子・藤原基経
(「藤原北家系図」参照)右大臣に昇らせ、権力を受け継がせていたのである。
(おもしろくねえ!)
 朕は悔しがった。
(ジイジは自分の子孫が代々権力を継承できるような仕組みを作っておきやがった……)
 これが後世いう摂関家の始まりであった。

 基経は、養父良房に負けず劣らずクセモノであった。
 クセモノは朕にいやみを言った。
「知ってます〜?帝が名君の時は、天変地異が起こらないそうですよ〜」
 朕の治世は天変地異が起こりまくっていた。東日本大震災で一躍有名になった貞観地震津波
(貞観地震・貞観津波)も、貞観十一年(869)に起こっている。
「何が言いたい?」
「いえ、別に」
 基経はこんなことも言った。
「もうすぐ貞明親王殿下が九歳になられます」
 九歳とは、朕が即位した年齢である。
 朕はそれを知っていたが、とぼけて聞いてやった。
「だから、何が言いたい?」
「いえ、別に」
 基経は、また話題を変えた。
「――そういえば、この頃、火事も多いですね〜」
 このところ、淳和院
(じゅんないん)や冷泉院(れいぜいいん)など、天皇家の宮殿も炎上していた。
「怖いな」
「誰か放火でもしているんですかねえ〜?帝のお命でもねらって」
「え?」
「ふひ!冗談ですよっ」
 朕はゾワワッとした。父の暗殺疑惑話を思い出して恐怖爆発した。
(こっ、こっ、殺されるぅ〜!)

 貞観十八年(876)十一月、朕は九歳の貞明親王に譲位した。
 伝五十七代天皇・陽成
(ようぜい)天皇である(「引退味」参照)
 同日、朕は藤原基経を摂政とした。
(これでいいんだろうが!)


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現在の水尾(京都市右京区)周辺

 元慶三年(879)、朕は出家し、参議・在原行平(ゆきひら。業平の兄。「在原氏系図」参照)、藤原山蔭(やまかげ。「藤原北家系図」参照)らとともに畿内の諸寺を巡礼した。
 愛宕山
(あたごやま。京都市右京区亀岡市)西麓に、丹波水尾(みずのお・みずお。京都市右京区)の里があった。
 平安京から山一つ隔てているだけにもかかわらず、閑散としたド田舎で、山麓に傾くように家々が点在し、わずかな人々が斜面にへばりつくようにして暮らしていた。
「いいところだ」
 朕は水尾の里が気に入った。
 ユズの木がたくさんあり、香気に満ちているのも大好きであった。
「朕が死んだら、権力とは無縁のこの地に葬られたい」

 元慶四年(880)十二月四日、朕は病死した。享年三十一。
 朕の遺体は上粟田山
(京都市東山区)で火葬された後、遺言どおり水尾山に葬られた。水尾山陵(みずのおやまのみささぎ)である。

 朕が死ぬ数日前、行平が朕の伏していた円覚寺(えんがくじ。旧粟田院。東山区)を訪れた。
「まだ死んではなりません!」
「いや、もうダメのようだ」
「このまま死んでしまっては、先帝は摂関家に敗れたことになりますよっ!」
 朕は笑った。満足していた。なぜか勝ち誇っていた。
「朕が摂関家に敗れただと。ふっ!朕はとうに秘策を施している」
「秘策?」
「ああ。いずれ朕のあまたいる子たちが答えを出してくれるであろう」

 事実、朕の子孫である清和源氏は、古代にあれほど栄えていた摂関家を権力の座から追い散らすと、概して中世〜近世の長きに渡って天下を取り続けたのであった(「清和源氏系図」参照)

 絶対に勝てない敵とは戦わず、とりあえず子供をたくさん作っておいて未来に勝利を託すこと――。
 これが朕の究極の秘策であった。

[2011年7月末日執筆]
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