118.諾威味 基礎用語集 | ||||||||||||||
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●在原業平(ありわらのなりひら)
(825-880) 歌人・官人。六歌仙(ろっかせん)・三十六歌仙の一人。右近衛権中将。阿保(あぼ)親王の王子。平城(へいぜい)天皇の孫。『古今和歌集』に三十首収録。歌物語『伊勢物語』の主人公として知られる。
●右大臣(うだいじん)
律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。
●応天門(おうてんもん)の変
866大納言(だいなごん)・伴善男(とものよしお)が応天門(おうてんもん)に放火したとして失脚した事件。善男は放火は左大臣・源信(みなもとのまこと)の仕業と主張したが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)がこれを擁護、逆に善男・中庸(なかつね)父子が犯人とされ、善男は伊豆へ、中庸は隠岐へ流刑、同時に紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)らも処罰された。この事件によって伴・紀氏は衰退、藤原北家の権力はより強化された。
●皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?
●参議(さんぎ)
朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。
●清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。⇒清和源氏系図
●清和上皇(せいわじょうこう)←清和天皇←惟仁親王(これひとしんのう)
(850-880) 伝五十六代天皇(在位858-876)。父は文徳(もんとく)天皇。母は藤原良房(よしふさ)の娘・明子(あきらけいこ・めいし)。父の死で九歳で即位し、藤原良房が摂政として補佐、876陽成(ようぜい)天皇に譲位し、清和源氏の祖となった。
●摂関家(せっかんけ)
摂政・関白を独占して世襲した家柄。藤原北家の嫡流。良房(よしふさ)・基経(もとつね)に興り、道長(みちなが)・頼通(よりみち)の代で確立、院政期に三家(近衛・松殿・九条)に、鎌倉時代初期に五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に分裂した。
●摂政(せっしょう)
天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。
●太政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)
律令制における太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)であるが、奈良時代に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が任ぜられた太師(たいし。大師)や、道鏡(どうきょう)が任じられた太政大臣禅師もこれに相当する役職。
●大納言(だいなごん)
太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。
●天皇(てんのう)
古代〜現代に至る日本の国王。もとはヤマト政権の大王。七世紀から天皇に移行。初代天皇(大王)は神武(じんむ)天皇?
今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
●伴 善男(とものよしお)
(811-868) 公卿。摂政・太政大臣。大伴(伴)国道(くにみち)の子。844右少弁(うしょうべん)になり、846善ト(ぜんがい)訴訟事件を経て847蔵人頭(くろうどのかみ)・848参議に昇進、855藤原良房(ふじわらのよしふさ)らと『続日本後紀(しょくにほんこうき)』編集に携わり、中納言を経て864大納言に昇進するが、866応天門(おうてんもん)の変で失脚、伊豆へ流された。
●日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。
●藤原基経(ふじわらのもとつね)
(836-891) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原長良(ながら)の子。藤原良房(よしふさ)の養子。879正史『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』を完成、884陽成(ようぜい)天皇を廃して光孝(こうこう)天皇を擁立、887宇多(うだ)天皇によって臣下で初めて関白(かんぱく)に任じられたが、887-888阿衡(あこう)の紛議を起こして困らせた。
●藤原良房(ふじわらのよしふさ)
(804-872) 公卿。摂政・太政大臣。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子。妻は嵯峨天皇皇女・源潔姫(みなもとのきよひめ)。842嵯峨天皇没後、承和(じょうわ)の変で恒貞親王を廃し、通康(みちやす)親王(文徳天皇)を擁立、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らを追放し、857臣下で初めて太政大臣に就任、866応天門(おうてんもん)の変で伴善男(とものよしお)・紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)を追放し、臣下初めて清和(せいわ)天皇の摂政(せっしょう)に就任、869正史『続日本後紀(しょくにほんこうき)』を完成させた。
●平安京(へいあんきょう)
(794-1868) 平安〜江戸時代の日本の首都。平安時代の政治の中心地。京域は京都盆地北部(京都市)。東西約四・五キロ、南北約五・二キロ794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。
●平安時代(へいあんじだい)
(794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。
●文徳天皇(もんとくてんのう)←道康親王(みちやすしんのう)
(827-858) 伝五十五代天皇(在位850-858)。仁明(にんみょう)天皇の皇子。母は藤原冬嗣(ふゆつぐ)の娘・順子(じゅんし)。842承和の変で恒貞(つねさだ)親王に代わって立太子し、850父の死で践祚、惟仁親王を皇太子にした。
●六歌仙(ろっかせん)
平安時代前期の和歌名人六傑。在原業平(ありわらのなりひら)・遍照(へんじょう。遍昭)・小野小町(おののこまち)・喜撰(きせん)・文屋康秀(ふんやのやすひで)・大友黒主(おおとものくろぬし)のこと。