100.入試味 基礎用語集

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阿衡の紛議(あこうのふんぎ)=阿衡事件
 (887-888)宇多天皇(うだてんのう)と藤原基経(ふじわらのもとつね)との間に起こった政争。887宇多天皇即位時の基経を関白に任じた勅書に「阿衡」とあるのをみて、基経が阿衡に職掌なしとして政務を放棄した。勅書を作成した橘広相(たちばなのひろみ)は困惑し、888宇多天皇が譲歩して勅書を撤回、基経は娘の温子(おんし)を入内させた。スト味

氏寺(うじでら)
 氏族一門の寺。蘇我氏(そがし)の飛鳥寺(あすかでら)、秦(はた)氏の広隆寺(こうりゅうじ)、藤原(ふじわら)氏の興福寺(こうふくじ)、和気(わけ)氏の神護寺(じんごじ)など。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。

宇多法皇(うだほうおう)←宇多上皇(じょうこう)←宇多天皇←源定省(みなもとのさだみ)
 (867-931) 伝五十九代天皇(在位887-897)。光孝(こうこう)天皇皇子。884臣籍降下されるが、887父の死後に即位、887-888阿衡(あこう)の紛議で関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)と対立するが、891基経死後に寛平(かんぴょう)の治を断行、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用し、摂関家を抑制、長子・醍醐(だいご)天皇に譲位し、『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』を残した。スト味 受験味 朦朧味

延喜式(えんぎしき)
 律令の施行細則集。平安時代の法典。五十巻。三代式の一。905醍醐(だいご)天皇の命令により、藤原時平(ふじわらのときひら)・藤原忠平(ただひら)らが編集。927成立。967施行。行事や儀式・法令研究の根本とされた。

応天門(おうてんもん)の変
 866大納言(だいなごん)・伴善男(とものよしお)が応天門(おうてんもん)に放火したとして失脚した事件。善男は放火は左大臣・源信(みなもとのまこと)の仕業と主張したが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)がこれを擁護、逆に善男・中庸(なかつね)父子が犯人とされ、善男は伊豆へ、中庸は隠岐へ流刑、同時に紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)らも処罰された。この事件によって伴・紀氏は衰退、藤原北家の権力はより強化された。告発味

大坂の役(おおさかのえき)=大坂冬の陣(ふゆのじん)+大坂夏の陣
(冬の陣) 1600関ヶ原の戦に勝って天下を取った徳川家康(とくがわいえやす)は、豊臣家滅亡を謀り、1614方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)にいちゃもんをつけて豊臣家を挑発、多数の牢人(ろうにん。浪人)を雇ったことを口実に二十万の大軍で大坂城を攻囲するが、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らの奮戦で攻めきれず、講和した。籠城味

(夏の陣) 家康は大坂城の外堀だけを埋めるという講和条件を無視し、内堀まで埋めて豊臣家を挑発、重ねて無理難題を突きつけ、受け入れられないと知るや諸大名に出陣命令、十五万の大軍で再び大坂城に攻め寄せた。豊臣方も奮戦するがかなわず、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らは戦死、大坂城は炎上し、淀殿(よどぎみ)・豊臣秀頼(ひでより)母子は自害、豊臣家は滅亡した。

外戚(がいせき)
 母方の親族のこと。蘇我(そが)・藤原(ふじわら)氏・平(たいら・へい)氏は天皇家の、北条(ほうじょう)氏は源(みなもと・げん)氏の、安達(あだち)氏は北条氏の、日野(ひの)氏は足利(あしかが)氏の外戚として権力を握った。

加持祈祷(かじきとう)
 密教由来の祈祷形態。呪文(じゅもん)を唱え、病気平癒や災害よけ、現世利益などを祈った。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。古代の公卿は現在でいう閣僚に相当。

薬子の変(くすこのへん)=平城上皇の変(へいぜいじょうこうのへん)=平城太上天皇(へいぜいだじょうてんのう)の変=薬子の乱
 式家の藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(ふじわらのくすこ)らにあおられた平城上皇(へいぜいじょうこう)が嵯峨(さが)天皇に対して起こした反乱未遂事件。809平城天皇は病気のため弟・嵯峨天皇に譲位、旧都・平城京へ移るが、仲成・薬子らにそそのかされて重祚(ちょうそ。再即位)と平城京還都を計画、810嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)・藤原冬嗣(ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどのとう)に任じ、反乱計画を察知、平安京で仲成を逮捕・射殺した。一方、平城上皇は東国へ行こうとするが失敗して出家、薬子は自殺し、皇太子・高岳親王(たかおかしんのう。高丘親王とも。平城天皇皇子)は廃された。これにより式家は衰退し、北家が台頭した。
内乱味

熊野詣(くまのもうで)
 熊野三山(熊野熊野本宮大社+熊野速玉大社+熊野那智大社)に参詣すること。平安時代後期に院・貴族が多く参詣し、鎌倉時代以降は武士・庶民の参詣も盛んになった。熊野味

皇后(こうごう)←大后(たいこう・たいごう・おおきさき)
 天皇の正妻。大王の正妻は大后。天武天皇の頃(皇后は後の持統天皇)に称号が定着し、大后は皇太后の略称となる。一条天皇から二后並立制(皇后・中宮)がとられた。

光孝天皇(こうこうてんのう)←時康親王(ときやすしんのう)
 (830-887) 伝五十八代天皇(在位884-887)。仁明(にんみょう)天皇皇子。母は藤原総継(ふじわらのふさつぐ)の女・沢子(たくし)。太宰帥(だざいのそち)・式部卿(しきぶきょう)等を歴任した後、884陽成(ようぜい)天皇退位によって藤原基経(もとつね)に擁立されて即位、基経を実質上の関白に任じ、887臨終に際して子の源定省(みなもとのさだみ。宇多天皇)の即位を希望、基経に許可された。スト味

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

興福寺(こうふくじ)
 奈良県奈良市所在。法相宗(ほっそうしゅう)大本山。藤原氏の氏寺。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が建立した山階(やましな)寺をその子・不比等(ふひと)が奈良に移したもの。平安時代以降は北嶺(延暦寺)と並んで日本の仏教教学の中心となり、中世には大和国守護を兼ねた。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

霜月騒動(しもつきそうどう)
 1285九代執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)の外舅(または外祖父)で、評定衆(ひょうじょうしゅう)も務めた実力者・安達泰盛(あだちやすもり)が、内管領(ないかんれい・うちのかんれい)・平頼綱(たいらのよりつな)に討伐され、滅ぼされた事件。この事件は執権政治から得宗(とくそう)専制政治への転換点とされ、以後、内管領の権力はより強化された。揉事味

自由民主党(じゆうみんしゅとう)=自民党(じみんとう)
 (1955- )自由党と民主党の保守合同によって成立した政党。初代総裁は鳩山一郎(はとやまいちろう)。結党以来一貫して政権を保持したが、1993に分裂、初めて野党に転落するが、1994再び政権党に返り咲き、2009再び野党に転落した。

修験道(しゅげんどう)
 日本古来の山岳信仰が神道・密教・儒教・道教・陰陽道などと融合して成立した宗教。役小角(えんのおづぬ)を祖とし、修行者を山伏という。聖護院を本拠に紀伊熊野で活動する天台宗系の本山派と、醍醐寺を本拠に大和大峰で活動する真言宗系の当山派が二大流派で、中世〜近世に盛んになったが、1872修験道廃止令で衰退した。

荘園(しょうえん)
 貴族や寺社の私有地。自力で開墾(自墾地系)・買得(既墾地系)したもの(総じて墾田地系)と、寄進されたもの(寄進地系)に分けられる。鎌倉時代以後、武士に奪われ、太閤検地(たいこうけんち)の実施によって消滅した。

承久の乱(じょうきゅうのらん)承久の変(へん)
 後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。1219三代将軍・源実朝(みなもとのさねとも)暗殺事件後、後鳥羽上皇は西面(さいめん)の武士を設置するなど武力を強化、1221二代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して兵を挙げた。幕府は北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)ら十九万人の討伐軍を派遣し、各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を後堀河(ごほりかわ)天皇に替え、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ配流(土御門上皇は自ら土佐へ赴いた)、没収した荘園群に新補地頭(しんぽじとう)を任命し、朝廷監視のため京都に六波羅探題(ろくはらたんだい)を設置した。栄光味

正中(しょうちゅう)の変
 後醍醐(ごだいご)天皇による一度目の鎌倉幕府倒幕未遂事件。1324後醍醐天皇は権中納言・日野資朝(ひのすけとも)、蔵人・日野俊基(としもと)、美濃の武士・多治見国長(たじみくになが)や土岐頼兼(ときよりかね。頼時)らと無礼講と称して幕府転覆の密談を重ねるが、一族の船木頼春(ふなきよりはる。頼治。土岐頼員)が六波羅探題(ろくはらたんだい)に密告、京都の宿所を急襲されて国長・頼兼らは敗死し、資朝は佐渡に流刑、後醍醐天皇も疑われたが、万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)に言い訳させて乗り切った。
秘密味

真言宗(しんごんしゅう)
 仏教の流派。空海(くうかい)が創始。天台宗(てんだいしゅう)の台密(たいみつ)に対して東密(とうみつ)と呼ばれる。京都の東寺(とうじ)や高野山(こうやさん)の金剛峰寺(こんごうぶじ)を中心に発展し、三十六流に分かれた。

菅原道真(すがわらのみちざね)
 (845-903) 学者。公卿。右大臣。是善(これよし)の子。母は伴氏。877文章(もんじょう)博士になり、894遣唐使(けんとうし)廃止を進言、887〜888阿衡(あこう)の紛議に意見して宇多(うだ)天皇の信頼を得、892史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』を編集、893参議になり、899右大臣に昇って正史『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』・詩集『菅家文集(かんけぶんそう)』を編集するが、901左大臣・藤原時平(ときひら)の讒言(ざんげん)によって大宰府(だざいふ)に左遷され(昌泰の変)、任地で没して怨霊となり、天神として祭られた。スト味
受験味 入試味

崇峻天皇(すしゅんてんのう)←泊瀬部皇子(はつせべのおうじ・はつせべのみこ)
 (?-592) 第三十二代天皇(在位587-592)。欽明(きんめい)天皇皇子。母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・小姉君(こあねぎみ)。587用明(ようめい)天皇没後、蘇我馬子(うまこ)に擁されて即位したが、やがて対立し、592馬子の部下・東漢駒(やまとのあやのこま)に殺された。
襲撃味

摂関政治(せっかんせいじ)
 平安時代中期に藤原氏が天皇の外戚となり、摂政・関白職を独占して主導権を握った時代。866応天門の変後の藤原良房(ふじわらのよしふさ)摂政就任に始まり、969安和の変後に摂関は常置となり、藤原道長の代で全盛期を迎えるが、1086院政が始まると衰退した。

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば、神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

曽根崎心中(そねざきしんじゅう)
 江戸時代の浄瑠璃。近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)作。1703大坂竹本座初演。近松の最初の世話物。大坂曽根崎の露天神社で起こった情死事件に取材。平野屋の手代・徳兵衛(とくべえ)と天満屋(てんまや)の遊女・お初(はつ)が心中する物語。 心中味

醍醐天皇(だいごてんのう)←敦仁親王(あつぎみしんのう)
 (885-930) 伝六十代天皇(在位897-930)。宇多(うだ)天皇の皇子。母は藤原高藤(たかふじ)の女・胤子(いんし)。893皇太子となり、897父から「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」と皇位を譲られて即位、901昌泰(しょうたい)の変で菅原道真(すがわらのみちざね)を左遷し、902延喜の荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発令、藤原時平(ふじわらのときひら)らに『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』「延喜格式(えんぎきゃくしき)」を、905紀貫之(きのつらゆき)らに勅撰和歌集『古今和歌集』を編集させ、907延喜通宝を鋳造、914三善清行(みよしきよゆき)らに意見封事を上申させるなど延喜の治を行った。受験味 詐欺味3
入試味

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

平 忠盛(たいらのただもり)
 (1096-1153) 武将。正盛(まさもり)の子。白河法皇(しらかわほうおう)に仕え、左衛門少尉・検非違使・伯耆守などを歴任、鳥羽上皇(とばじょうこう)の近臣となり、山陽・南海の海賊追捕に活躍、備前守・刑部卿などを務め、日宋貿易に関与、内昇殿を許された。泥酔味

平 将門(たいらのまさかど)
 (?-940) 武将。良持(よしもち。良将)の子。初め京都で関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕え、下総に帰国後、931伯父・平良兼(よしかね)と対立、931伯父・平国香(くにか)を殺し、その子・平貞盛や良兼らを撃破、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)国府を攻略し、ほぼ関東一円を支配、新皇(しんのう)を称し、下総猿島(さしま)を内裏としたが、940貞盛・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれた(平将門の乱)。

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

滝口の武士(たきぐちのぶし)=滝口=滝口武者
 平安〜鎌倉時代に滝口(内裏の清涼殿の北東)に詰めていた武士のこと。宇多天皇が用心棒として設置したのが始まり。蔵人所所属で、腕の立つ者が雇われた。定員十名。後、三十名。

竹下 登(たけしたのぼる)
 (1924-2000) 政治家。首相。1958衆院議員となり、官長・建設相・蔵相を歴任、1987中曽根(なかそね)裁定で首相になり、「ふるさと創生」を掲げ、税制改革を推進、対米摩擦の緩和に努め、1989消費税を導入するが、リクルート事件で退陣した。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

大宰府(だざいふ)=遠の朝廷(とおのみかど)
 九州に置かれた古代の地方特別官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった朝廷の出張所。長官は大宰師(だざいのそち)。663白村江(はくそんこう)の戦後に設置され、九世紀以降は貿易も行って活性化したが、1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。
暴発味

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変=橘奈良麻呂の乱
 757橘諸兄(たちばなのもろえ)死後、大炊親王(おおいしんのう。後の淳仁天皇)を擁立して実権を握った藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に対し、参議・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が大伴古麻呂(おおとものこまろ)・小野東人(おののあずまひと)らと反乱を起こそうとしたが、計画は事前に発覚、古麻呂・東人らは獄死し、奈良麻呂も獄死したとされているが不明。
意地味

橘 諸兄(たちばなのもろえ)←葛城王(かつらぎおう・かずらきおう)
 (684-757) 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王(みぬおう)の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。藤原光明子(こうみょうし)の異父兄として藤原四兄弟没後に政権を握り、参議から大納言、右大臣、左大臣と昇進、国分寺建立・大仏造立など聖武(しょうむ)天皇の鎮護国家(ちんごこっか)政策に協力し、740恭仁京(くにきょう)遷都を主導したと思われるが、756左大臣を辞任した。
辞任味

天台宗(てんだいしゅう)
 仏教の宗派。隋(ずい)の僧・智(ちぎ)を祖とし、法華経を基とする。日本には805最澄(さいちょう)が将来し、桓武(かんむ)天皇によって国家公認の宗派となった。十世紀末に山門派(さんもんは。延暦寺)と寺門派(じもんは。園城寺)に分裂した。

道鏡(どうきょう)弓削(ゆげ)道鏡
 (?-772) 法相宗(ほっそうしゅう)僧。義淵(ぎえん)・良弁(ろうべん)の弟子になり、孝謙上皇(こうけんじょうこう。称徳天皇)の病気を治して信任され、763少僧都(しょうそうず)・764大臣禅師・765太政大臣禅師と昇進、西大寺(さいだいじ)を建立し、766法王(ほうおう)に就任、769宇佐八幡宮の神託を利用して皇位をねらったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、称徳(しょうとく)天皇没後に失脚した。女帝味

東密(とうみつ)=真言密教(しんごんみっきょう)
 真言宗の密教。根本道場は教王護国寺(東寺)。空海(くうかい)を祖とし、聖宝(しょうぼう)を祖とする小野流と、益信(やくしん)を祖とする広沢流に分かれ、鎌倉時代にさらに分派した。

ノルマントン号事件(のるまんとんごうじけん)
 英国貨物船・ノルマントン号が沈没したことによる一連の事件。1886ノルマントン号は神戸を目指して横浜を出航、紀伊半島沖で難破するが、イギリス人ほか外国人乗員は全員脱出し、日本人乗客二十五名(または二十三名)は全員溺死(できし)した。領事裁判により船長ドレーク以下全員が無罪とされたが、国民の反発により船長だけが禁錮三か月と改められた。
海難味

埴輪(はにわ)
 古墳の外に並べられる素焼きの土製品。円筒埴輪と形象埴輪に大別され、後者には人物埴輪・動物埴輪・家型埴輪・器材埴輪がある。起源については土止め説・葬列模倣説・殉死代用説など諸説ある。相撲味4

藤原氏(ふじわらし・ふじわらうじ)
 特に古代に繁栄した氏族。四姓の一。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。鎌倉時代に北家の嫡流である摂関家は五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に分裂し、摂家将軍も輩出した。⇒藤原氏系図

藤原時平(ふじわらのときひら)
 (871-909) 公卿。左大臣。藤原基経(もとつね)の子。忠平(ただひら)・温子(おんし。宇多天皇女御)・穏子(おんし。醍醐天皇皇后)らの兄。891参議となり、中納言・大納言を経て899左大臣に昇進、901右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を讒言(ざんげん)して大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷させ、醍醐(だいご)天皇による延喜の治(えんぎのち)を主導、『日本三代実録』『延喜格式』編修をするが、子孫は栄えなかった。
受験味 入試味2

藤原忠平(ふじわらのただひら)
 (880-949) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原基経(もとつね)の子。母は人康親王(さねやすしんのう)の女。時平(ときひら)らの弟。900参議になるが辞退し、908還任、914右大臣となり、927『延喜式』を完成、930朱雀(すざく)天皇の摂政に就き、935-941承平・天慶の乱を平定、941関白に転じ、日記『貞信公記(ていしんこうき)』を残した。
受験味 入試味

藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
 740大宰少弐・藤原広嗣が大宰府で起こした古代九州最大の反乱。広嗣は橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問・玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の排除を要求して大宰府で挙兵、軍を三つに分けて北九州へ向かうが、大野東人(おおののあずまひと)率いる征討軍に関門海峡を破られて九州上陸を許し、板櫃川(いたびつがわ)の戦いで大敗、新羅(しらぎ)亡命を目指したが失敗し、捕らえられて斬殺(ざんさつ)された。
暴発味

藤原基経(ふじわらのもとつね)
 (836-891) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原長良(ながら)の子。藤原良房(よしふさ)の養子。879正史『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』を完成、884陽成(ようぜい)天皇を廃して光孝(こうこう)天皇を擁立、887宇多(うだ)天皇によって臣下で初めて関白(かんぱく)に任じられたが、887-888阿衡(あこう)の紛議を起こして困らせた。スト味

藤原良房(ふじわらのよしふさ)
 (804-872) 公卿。摂政・太政大臣。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子。妻は嵯峨天皇皇女・源潔姫(みなもとのきよひめ)。842嵯峨天皇没後、承和(じょうわ)の変で恒貞親王を廃し、通康(みちやす)親王(文徳天皇)を擁立、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らを追放し、857臣下で初めて太政大臣に就任、866応天門(おうてんもん)の変で伴善男(とものよしお)・紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)を追放し、臣下初めて清和(せいわ)天皇の摂政(せっしょう)に就任、869正史『続日本後紀(しょくにほんこうき)』を完成させた。告発味

仏教(ぶっきょう)
 釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んで浸透した。

平安京(へいあんきょう)
 (794-1868) 平安〜江戸時代の日本の首都。平安時代の政治の中心地。京域は京都盆地北部(京都市)。東西約四・五キロ、南北約五・二キロ794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。

密教(みっきょう)
 仏教の秘密の教え。表の顕教(けんぎょう)に対する裏仏教。教主は大日如来(だいにちにょらい)で、「大日経」「金剛頂経」などを経典とし、祈祷(きとう)を重視する。八世紀にインドから中国に伝えられ、九世紀初めに最澄(さいちょう)が台密(たいみつ)を、空海(くうかい)が東密(とうみつ)を伝えた。手で印を結び、口で真言を唱え、心に仏像を観じる(三密の行)ことにより、仏と一体になることを目指すという。

源実朝(みなもとのさねとも)
 (1192-1219) 鎌倉幕府三代将軍(在職1203-1219)。源頼朝(よりとも)の次男。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。将軍を廃された兄・頼家(よりいえ)の後を継いで執権・北条義時(よしとき)らと政治を執り、和歌や蹴鞠に励んで歌集『金塊(きんかい)和歌集』を編集したが、右大臣就任祝いの時、鶴岡八幡宮で兄の子・公暁(くぎょう)に殺害された。将軍味

三善清行(みよしのきよゆき・みよしきよゆき)
 (847-9189) 学者・官人。文章博士。氏吉の子。大蔵善行(おおくらのよしゆき)らに師事し、菅原道真(すがわらのみちざね)と対立、901道真左遷(昌泰の変)後に醍醐(だいご)天皇に「延喜」改元をさせ、914意見封事十二箇条を提出した。
受験味

民主党(みんしゅとう)
 @(1947-1950) 1947日本進歩党と日本自由党の一部、国民協同党の一部などで結成。総裁は芦田均(あしだひとし)。1949分裂し、1950連立派が民主自由党と合同して自由党を、野党派が国民協同党と合同して国民民主党を結成した。
 A(1996-) 1996鳩山由紀夫(はとやまゆきお)と菅直人(かんなおと)が結成し、1997新進党分裂で野党第一党となり、2003自由党を吸収、2009自民党に代わって政権を担った。

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