1.親友の死〜 大伴家持の憤死 | ||||||||||||||
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大伴家持――。
『万葉集』の編者されるこの男には文人のイメージが定着しているが、実は生粋の武人であった。
そもそも大伴氏は、代々天皇家のボディガードを勤めた武門の名家であった。
大伴金村失脚(「日朝味」参照)以降、最高権力者こそ輩出していないものの、家持の曽祖父・大伴長徳(ながとこ。馬飼)は右大臣に、祖父・大伴安麻呂(やすまろ)と父・旅人(たびと)は大納言に昇っている(「大伴氏系図」参照)。
家持自身も、延暦四年(785)当時は中納言(ちゅうなごん)に就いていたが、死の床にあった。
「わしはもうだめじゃ。とうとう父祖の官位を追い抜くことはできなかった……」
家持は前年に持節征東将軍(じせつせいとうしょうぐん。臨時蝦夷征討司令官)を兼任し、つい先日まで陸奥に赴いていたのであるが、具合が悪くなって帰京したと思われる。
ただ、出発したのは旧都平城京であったが、帰ってきたのは新都長岡京であった。
この前年の六月、時の帝・桓武天皇は、突然山背で長岡京造営を開始、内裏や諸官庁の完成を待たず、十一月にあわただしく遷都していたのであった。
家持は苦笑した。
「鬼のいぬ間に洗濯というヤツじゃ」
桓武天皇は、家持が遷都に反対することを知っていた。
落ちぶれたとはいえ、大伴氏は大和の代表豪族であり、その当主である家持は、大和豪族連合という抵抗勢力の首領(ドン)である。その彼が反対すれば、遷都が難航することは目に見えていた。
そのため桓武天皇は、家持を遠くに追いやっておき、そのスキに洗濯、もとい、遷都を行ったのである。
家持が客人に聞いた。
「殿下。帝のなされよう、どう思われます?」
早良親王 PROFILE | |
【生没年】 | 750-785 |
【別 名】 | 早良王・親王禅師・崇道天皇 |
【出 身】 | 山背国大枝?(京都市西京区) |
【職 業】 | 皇族 |
【役 職】 | 皇太子(781-785)←南大寺・東大寺の要職 |
【 父 】 | 光仁天皇(施基親王の子) |
【 母 】 | 高野新笠(和乙継の娘) |
【兄 弟】 | 開成・桓武天皇(山部親王)・能登内親王 ・弥努摩内親王・酒人内親王・稗田親王 ・他戸親王・広根諸勝 |
【妻 子】 | ナシ |
【甥 姪】 | 安殿親王・神野親王ら |
【従兄弟】 | 神王・壱志濃王ら |
【墓 地】 | 八嶋陵(奈良県奈良市) |
【霊 地】 | 上御霊神社(京都市上京区) ・下御霊神社(京都市中京区) ・崇道神社(京都市左京区) ・藤森神社(京都市伏見区) ・崇道天皇神社(兵庫県竜野市) ・御霊神社(大阪市中央区・京都府加茂町 ・高知県高知市ほか)ほか |
客人は早良親王。
桓武天皇の実弟であり、その皇太子(皇太弟)、つまり後継者であった。
桓武天皇には子がないわけではなかった。
安殿親王(後の平城天皇)・神野親王(後の嵯峨天皇)を初め、最終的には三十六人の子をなしている(「天皇家系図」参照)。
にもかかわらず、なぜ弟の早良親王を皇太子にしたのか?
実は、二人の父光仁天皇は、早良親王の立太子を条件にして桓武天皇に譲位していたからである。
「私は今の待遇に何の不満もありません」
早良親王の言葉は事実であった。
先帝光仁天皇は天智天皇の孫である。
が、先々帝・称徳天皇まで、奈良時代の天皇はみな天武天皇の子孫であった。
「壬申の乱以後、天智天皇の子孫の皇位継承権は失われた」
それが奈良朝における暗黙の了解であった。
それを破ったのが、希代の策士・藤原百川(ももかわ。雄田麻呂)である。
彼の思いもつかぬ裏ワザにより、光仁天皇は奇跡的に即位できたのであった(「ヤミ味」参照)。
「父の即位によって兄は天皇になり、私も皇太子になれました。これ以上の待遇がありましょうか?」
涼しげに微笑む早良親王を見て、家持はふふんと笑った。
「ものは考えようじゃな」
家持は、桓武天皇が嫌いであった。考え方の違いもあるが、人物的にも彼を好かなかった。
(今の帝は女を囲いまくっているエロエロ帝じゃ)
そういう自分もかなりエロエロであるが、自分のことは棚に上げるものである。
でも、その弟の早良親王は好きであった。
東宮大夫(とうぐうのだいぶ。春宮大夫。皇太子事務所長)を兼任していることもあって彼の清廉潔白な性格を熟知しており、好感を抱いていた。
(このお方こそ、帝王にふさわしいお方じゃ)
そうまで思っていた。
(この方が帝位に就かれるのを、この目で見届けたかった……)
しかし、それもかなわぬ夢になろうとしていた。
家持はせき込んだ。
早良親王が背中をさすった。
「もったいない……」
家持が彼の手をはねのけて続けた。
「あなたは帝から冷遇されている。そうは思いませんか?」
「いいえ」
「いいや、あなたは皇太子から引きずり下ろされるかもしれぬ。帝はあなたより、実の子がかわいいはず。本当はあなたにではなく、安殿親王に帝位を譲りたいはずじゃ。帝だけではない。あの男もそう思っているに違いない」
あの男とは、呪(のろ)わしき式家の生き残り、中納言・藤原種継(たねつぐ。「藤原式家系図」参照)である。
無位無官・藤原清成(きよなり)の子で、策士百川の甥に当たるその男は、今では桓武天皇の信任を一身に受け、造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)、つまり、長岡京造営の最高責任者も任されていた。「鬼のいぬ間の洗濯」も、彼が桓武天皇に進言したことと思われる。
人々はうわさした。
「種継は百川の再来だ」
「あの井上内親王(いのうえないしんのう)の怨霊も、種継だけにはかなわなかった「ヤミ味」参照)」
「今や種継は帝の分身だ」
「すべての権力はヤツの手の中にある」
早良親王は顔をしかめた。
「私も種継は好きではありません。しかし彼は賢い男です。仕事ができる男です。帝にとって無二の忠臣です。だから帝も重用しているのでしょう」
「賢い男は悪いことも考える。仕事ができる男は要領もいい。奸臣(かんしん)は忠臣に似たり。帝に取り入っている顔をして、実は自分の財布を満たすことしか考えていないのじゃ。ヤツが帝に遷都を勧めた理由を御存知ですか?」
「義母(井上内親王)の怨霊から逃れるためでしょう」
「それは建前じゃ。本音はすべての利権を自分の本拠地に呼び込もうとするため」
種継の母は、山背葛野(かどの。京都市右京区)を本拠とする渡来系豪族・秦朝元(はたのちょうげん・あさもと)の娘であった。種継は山背出身であり、山背に地盤を持っているのである。
彼だけではない。
右大臣藤原是公(これきみ。「藤原南家系図」参照)、中納言・藤原小黒麻呂(おぐろまろ。「藤原北家系図」参照)、参議藤原継縄(つぐただ。南家)、参議紀船守(きのふなもり。「紀氏系図」参照)、みなみな山背を本拠とするか、別荘を持っている連中ばかりであり、桓武天皇自身もまた、山背大枝(おおえ。京都市西京区)出身であった。
「帝の目的は、旧勢力(大和の豪族や巨大寺院)の打破と、新勢力(山背派の人々)による新国家の建設なんじゃ。これからは山背派の時代じゃ。旧来の大和の豪族や寺院は排除されるんじゃ! 我々は永久に出世とは無縁の存在になり下がってしまうんじゃ!」
「……」
「大伴一族の若い連中も怒っている。大伴継人(つぐひと)などは『種継殺すべし!』と叫んでいる」
早良親王は皇太子であるとともに、仏教界の重鎮でもあった。
南大寺(なんだいじ。奈良市)で要職を務め、東大寺の実権も握り、親王禅師とあがめられている存在であった。その彼が、大和の豪族や寺院の衰退を望んでいるはずがなかった。
「互いの利害が衝突することは世の常です。しかし、そのことで血を流しては何もなりません。互いの良いところを見出し、妥協し合うしかありません」
「種継に妥協する気はない! ヤツは新しいものがすべていいものだと思っている!
我々と話し合う気など、全然ない! だから、わしのいない間に遷都を決行した!
汚いっ! やり方が汚すぎるっ! 汚い仕打ちをした者には、汚い最期こそふさわしい!
ヤツなんぞ、血ヘドの中でもだえ死ねばいいのじゃ!」
家持は苦しそうにせき込んだ。
そして、呪いの言葉を吐き捨てた。
「ヤツも井上内親王にたたり殺されてしまえばいいのじゃ! 彼女の怨霊がやらなければ、わしがやる!
地獄の底からはい出してきてでも、ヤツをたたり殺してくれよう!」
しばらくして、家持は憤死した。
時に延暦四年(785)八月二十八日。
享年は六十八(六十九と七十説もある)。
※ 大伴家持の死地については陸奥説もありますが、私は死ぬ前に戻ってきた説を採っています。