2.政敵の死〜 藤原種継の暗殺 | ||||||||||||||
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大伴家持が死ぬ四日前、桓武天皇は旧都平城京に行幸していた。
斎王(さいおう。斎宮。斎皇女。伊勢神宮の最高責任者)に就任した娘・朝原内親王(あさはらないしんのう)の伊勢下向を見送るためである。
ちなみに朝原内親王の母は、妃・酒人(さかひと)内親王。
桓武天皇の異母妹で、あの井上内親王の娘であった。
井上内親王も酒人内親王も斎王を経験しているので、前代未聞の祖母・母・娘三代の斎王ということになる。
「気を付けてな」
声をかける父の顔を見て、朝原内親王は涙を浮かべた。
「父上、母上、それでは、行って参ります……」
酒人内親王もそでで涙をぬぐった。
娘の行列が見えなくなると、異母兄夫の肩にもたれかかった。
「帝もすぐに長岡へ帰ってしまわれるのですね」
酒人内親王は、いまだ平城京に住んでいる。
皇后・藤原乙牟漏(おとむろ)がふんぞり返っている長岡京の後宮には行きたくないのである。
「そんなことはない」
桓武天皇が彼女を抱きしめた。
乙牟漏は長岡京でお留守番なので、遠慮なく抱きしめることができる。
「もうしばらく、君のところにいるよ」
その頃、長岡京では、急ピッチで造宮工事が進められていた。
すでに内裏や朝堂院(ちょうどういん。国会議事堂)は完成していたので、諸官庁や諸門の工事に着手していたのであろう。
造長岡宮使・藤原種継もまたお留守番であった。
「帝が帰られるまでに、主要な殿舎を完成させてしまうのだ」
種継の命令により、昼夜ぶっ通しで工事は行われた。
「恐るべき早さで殿舎を完成させて、帰ってきた帝をびっくりさせてやろう」
九月二十三日の晩、種継は馬で工事現場の見回りに出た。
「見回りしないと怠ける者がいるからな」
従兄弟・藤原宅美(やかみ・たくみ。詫美。良継の子。「式家系図」参照)が彼に付き添う。
「そう工事を急がせる必要はないでしょう」
種継は首を横に振った。
「いや。おれは帝から信頼されている。信頼は実行で返さなければならない。工事を早くすませること。これが今一番、帝が望まれていることだ」
「でも、一生懸命に仕事をすればするほど、ますます反対派の連中から憎まれますよ。井上内親王の怨霊もあなたをねらっていますし」
「ハハッ!」
種継は笑い飛ばした。宅美に馬を寄せて松明(たいまつ)を近づけて言った。
「言いたいヤツには言わせておけばいい。おれは帝の理想を忠実に現実化させているだけだ。私利私欲のためにやっているわけではない。怨霊だと?
そんなものおれは信じない。お前も信じるな。信じる者こそ、たたり殺されるのだ」
「そ、そうですね」
そのとき、二人の間のヤミを風が切り裂いた。
ひゅん!
ひゅん!
「う、ぐ……」
「な、なんでしょうか?
今の音は?」
宅美は不思議がったが、種継の様子が変であった。
「どうしました?」
「むうう……」
どう!
種継は落馬した。
「種継殿!」
宅美は馬から下りて、種継を抱き起こした。
その胸には、二本の矢が刺さっていた。
「ハハハハハハ!」
ヤミに不気味な笑い声がこだました。
「畜生!
曲者だ!
出会え!」
宅美は刀を抜くと、笑い声に向かって切りかかっていった。
そして、
「ギャッ!」
返り討ちにされた。
●藤原種継暗殺事件時の朝廷首脳 |
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官 職 | 官 位 | 氏 名 | 備 考 |
天 皇 | 桓武天皇 | 伝50代天皇。 | |
皇太子 | 早良親王 | 親王禅師。桓武天皇の弟。 | |
右大臣 | 従二位 | 藤原是公 | 中衛大将。桓武天皇の義父。 |
大納言 | 正三位 | 藤原継縄 | 大宰帥。桓武天皇の義祖父。 |
中納言 | 正三位 | 藤原小黒麻呂 | 中務卿。桓武天皇の義父。 |
中納言 | 正三位 | 藤原種継 | 造長岡宮使。桓武天皇の義父。 |
参 議 | 正三位 | 佐伯今毛人 | 皇后宮大夫・民部卿。 |
参 議 | 従三位 | 石川名足 | 左大弁。光仁天皇の側近。 |
参 議 | 従三位 | 紀 船守 | 中宮大夫。桓武天皇の義父。 |
参 議 | 正四位下 | 神 王 | 弾正尹。桓武天皇の妹婿。 |
参 議 | 従四位上 | 大中臣子老 | 右大弁・神祗伯・左京大夫。 |
※ 緑字は長岡京留守司。 |
種継はまだ息があった。
「こんなところで死んでたまるか……。まだ、工事は、終わっていない!」
彼は立ち上がろうとしたが、すぐに倒れた。
右兵衛督(うひょうえのかみ。宮城警備隊長)・五百枝王(いおえおう。後の春原五百枝。市原王と能登内親王の子。桓武天皇の甥)が異変に気が付いて駆け寄ってきた。
「なんてことだ……。早く! 卿を、卿の邸宅へ運べ!」
その晩、東宮に来客があった。
早良親王もまた、長岡京にいた。
臣下のほとんどは桓武天皇の平城京行幸に従っていたが、彼と種継、そして右大臣・藤原是公は留守官に任命されていたのである。
「殿下。先ほど太政官院(だいじょうかんいん・だじょうかんいん)付近で異変がありました。種継が狙撃(そげき)されたとのことです」
告げたのは左少弁(さしょうべん。副大臣級)大伴継人(つぐひと)。
後に応天門の変を起こすことになる伴善男の祖父に当たる男である(「告発味」参照)。
「何! 種継殿は大丈夫なんですか?」
「いえ。明日をも知れぬ重態とのこと」
「誰ですか? 下手人は誰なんですか?」
継人はしばしの沈黙の後、口を開いた。
「実行犯は、中衛舎人(ちゅうえのとねり)・牡鹿木積麻呂(おじかのこづみまろ)と、近衛舎人(このえのとねり)・伯耆桴麻呂(ほうきのいすきまろ)です。そして殺害を命じたのは、中納言・大伴家持卿……」
「何……」
早良親王は目を見開いた。
継人は頭を下げて懸命に訴えた。
「我々は家持卿の遺命を受けて種継を襲いました! 『殿下を頼む。何が何でも守ってくれ』
家持卿はそう言い残して亡くなられました! 殿下を守るには、他の方法はなかったんです!
落ちぶれる前に、やられる前に、ヤツを殺(や)るしかなかったんです! 殿下、なにとぞ御即位を! 今こそ兵を挙げ、帝を討ち、家持卿の悲願を達成する時です!」
「黙りなさい!
私には反乱を起こす気はありません!」
「これは反乱ではありません! 革命なんですよっ! 良き者を助け悪しき者をくじく、正義の戦いなんですよっ! 迷っている時間はありません! 今以外に殿下が帝を倒して御即位できる好機はないのです! 我らの叫びは家持卿の叫び! あなたにも聞こえるでしょう。家持卿の魂の叫び声がっ! 『殿下! 立て! 立つのだっ!』と!」
「やかましいっ!」
「聞こえないはずはありません! 殿下は誰よりも家持卿の心中を知っておられた方です! 家持卿の無念は、誰よりも殿下が御存知のはずです! 即座に御決断をっ! 家持卿の怨念が、我々を守ってくれます!」
早良親王は継人に香炉(こうろ)を投げつけた。そして命じた。
「私は何も聞いていません。失せなさい!」
継人は追い詰められた。作り笑顔が醜くなった。
「そ、そんなこと言っていいんですか。もし私が捕まったら、みんなしゃべりますよ。みんなみんなあなたに命じられてしたことだって!
あなたが黒幕だってっ!」
「私は黒幕じゃない!」
早良親王は太刀をつかんだ。それを抜くと、切っ先を継人の顔に突きつけて命じた。
「失せろ!」
継人は唇をかんで引き下がった。
そして、
「家持卿は、あの世でおいおい泣いているでしょうに」
と、悔しそうに帰っていった。
種継射られるの知らせは、桓武天皇にも伝えられた。
「何だと!」
桓武天皇は驚いて帰京した。長岡京へ到着したのは二十四日の朝である。
その時、種継はまだかろうじて生きていた。
「種継。朕(ちん)だ」
桓武天皇は、彼のほおをたたいた。
一瞬、意識を取り戻した種継が言った。
「工事……、進んでいるでしょう……?」
種継は笑った。純粋な、満足そうな笑顔であった。
彼は逝った。享年四十九。
桓武天皇は泣いた。遺体にかぶさって号泣した。
そして、怒り出した。怒りに身を震わせながら聞いた。
「誰にやられた?」
「そ、それが……」
「ええい!
誰がやったと聞いているのだっ!」
五百枝王はかしこまった。
「犯人逮捕に全力を尽くしておりますが、いまだ……」
桓武天皇は彼にも激高した。
「貴様も種継のそばにいながら、なぜ守ってくれなかったのだっ! 朕にとって種継はかけがえのない忠臣だっ!
貴様が身を張ってぶっ殺されてでも、種継を守るべきだったのだっ!」
「もも! もももも! 申しわけございませんっっ!」