3.自身の死〜 早良親王の粛清

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中国反日デモ&JR福知山線脱線事故
1.親友の死 〜 大伴家持の憤死
2.政敵の死 〜 藤原種継の暗殺
3.自身の死 〜 早良親王の粛清
  

 まもなく、五百枝王らの必死の捜索により、下手人たちは逮捕された。
 主犯とされた大伴継人・大伴竹良
(たけら・つくら)、共犯とされた佐伯高成(さえきのたかなり)・大伴真麻呂(ままろ)・大伴湊麻呂(みなとまろ)・多治比浜人(たじひのはまひと。東宮職高官)、実行犯とされた牡鹿木積麻呂・伯耆桴麻呂は、即日処刑された。
 また、黒幕として名指しされた大伴家持は、生前の官職を取り上げられ、荘園の一部を没収された。
 大伴永主
(ながぬし。家持の子)・大伴国道(くにみち。継人の子。伴善男の父)・紀白麻呂(きのしろまろ。東宮職次官)・三国広見(みくにのひろみ)らも流刑にされ、吉備泉(きびのいずみ。真備の子)・藤原末茂(すえしげ。魚名の子)らは左遷された(三国広見・吉備泉・藤原末茂はこの事件とは無関係かも?)
 もう一つ、捜索側の五百枝王も流刑にされた。怠慢を責められたのか、実は共犯だったのかは明らかではない。

 問題は、皇太子・早良親王の処分であった。
 右大臣藤原是公は、
「謀叛に加担したわけではないし、不問でよいのでは?」
 と、寛容であったが
(これは自分も留守司だったからであろう)、中納言・藤原小黒麻呂(おぐろまろ)は強硬であった。
「いいえ。謀叛に加担しているかどうかは定かではありませんが、祭り上げられたのは事実です。継人らは謀叛の黒幕として家持と皇太子を名指ししていたではありませんか。当然、皇太子にもなんらかの処罰をすべきかと存じます」
 桓武天皇は笑って言い切った。
「あいつの性格は良く知っている。あいつが謀叛など企むはずがない」
「現に企んでいたではありませんか!」
 小黒麻呂は種継と仲が良かった。山背派の同志として、長岡京遷都を推進した仲であった。
 一方、早良親王のことは良く思っていなかった。次号「怨霊味」で明らかにするアルコトによって、彼を憎んでいた。
「帝も御存知でしょう。ことあるごとに皇太子と種継が言い争っていたことを! 家持が種継を憎悪していたことを! 二人には動機があります。二人以上に種継の死を願っていた連中はいません!」
 桓武天皇は小黒麻呂の剣幕にたじろいだ。
「では、本人に聞いてみよう」
 早良天皇のところに参議兼弾正尹
(だんじょうのかみ・だんじょういん。検察庁長官)・神王(みわおう。「天皇家系図」参照)を遣わして問いたださせてみた。
「やってませんてっ!」
 早良親王は一点張りであった。
「早良はやってないと言っているぞ」
「ふん。謀反人が本当のことを言うはずないじゃないですか」
 小黒麻呂はジトーッと暗く付け足した。
「帝。もし、今の皇太子を廃すれば、かわいいかわいい安殿親王殿下が新皇太子になれるんですよ」
「そんなことは今は関係ない話だ」
「関係ないことはありません! 帝は実の子と実の弟と、どっちがかわいいでしょうか? そんなことは決まってますよね?」
「だから、そんなことは今は関係ない!」
安殿親王殿下は病弱です。今の皇太子は健康です。このままでは安殿親王殿下は、永久に即位することなく、お亡くなりになられますね」
「……」
「かわいそうに。何のための人生だったんでしょうね……」
「貴様! 安殿はまだ死んでいない! 安殿のことを死んだように言うなっ!」

 桓武天皇安殿親王を見に行った。
 心配になって会いに行った。
 安殿親王は生きていた。
 でも、コホコホせきをしていた。
 今日は特に体調が悪いようで、寝込んでいた。
「また寝ているのか」
 皇后で生母の藤原乙牟漏が申しわけなさそうに言った。
「昨日、少し外で遊びすぎたようです」
 桓武天皇安殿親王の額を触って安心した。
「熱はないようだな」
 安殿親王が父の登場に気付き、目を開けて聞いた。
「父さん、ボクって、天皇になれないの?」
「そんなことないぞ。なれるぞ」
 桓武天皇は言ったが、安殿親王はため息をついた。
「ううん。なれないよ。ボクはまだ皇太子にもなっていないし、病弱だから、天皇になるまで体が持たなんだ」
「何を言い出すんだ!」
「ううん! なれないんだ! ボク、すぐに死んじゃうんだ! もえすぐ井上ばあちゃんがお迎えに来るんだ〜!」
 安殿親王は激しくせき込んだ。
「ああ、井上ばあちゃんが呼んでいる……。行かなきゃ」
「逝かなくてもいい!」
 桓武天皇が背中をさすると、治まった。
 安殿親王は父にすがってダダをこねた。
「ボク、皇太子になりたいなっ! 今すぐなりたいなっ!」
「分かった分かった。ならせてやるよ」
「ても、早良のおじちゃんはどうなるの?」
「……」
皇太子は早良のおじちゃんだよね? 二人一緒に皇太子にはなれないんだよね?」
 安殿親王はウルウルと父の顔を見つめた。
 父が顔をそらして言った。
「仕方がないな。おじちゃんは悪いことをしたから、辞めてもらうことにしよう」
 安殿親王は喜んだ。大はしゃぎしてピョンピョン飛び跳ねた。
「やったー! ボク、本当に皇太子になれるんだね! やったやったー!」

 しばらく息子と遊んだ後、桓武天皇は帰っていった。
 すると、ついたての後ろから小黒麻呂が出てきて褒めたたえた。
「親王殿下、とってもとってもお上手な演技でしたよ!」 
「えへへ。まーね。ところで小黒麻呂。皇太子になったら、本当に御菓子、たくさん食べられるんだろうねえ〜?」
 小黒麻呂が乙牟漏と顔を見合わせて保証した。
「それはもう飽きるほど食べられますよ。へへへ!」
「オホホッ!」
「キャッ! キャッ!」

 九月二十八日、桓武天皇は早良親王を長岡京内の乙訓寺(おとくにでら。京都府長岡京市)に幽閉した。 
 早良親王はわめき散らした。
「なぜですか? なぜ私がこんな汚い狭いところに閉じ込められなければならないんですか!?」
 神王が無表情に返した。
「謀叛を起こしたからですよ。身に覚えがあるでしょう?」
「ない! 全然ない! 絶対ないっ!」 
「あの晩、東宮にやって来た大伴継人を逃がしたとも聞いていますが……」
「……」
「やはり、そうですか……」
「仕方がなかったんです! でも、私が謀叛を企んだわけじゃない! アイツが勝手にやって来たんですよっ!」
「言い訳になりませんよ。継人と無関係なら、捕らえて帝へ突き出すべきだったんです」
「違うんだぁー! 私は無実だぁー! こんなこと、ありえな〜い!」

 その日より、早良親王は抗議の絶食を始めた。ハンガーストライキである。
「皇太子はあれから何も食べていません」
 神王の報告を受け、桓武天皇は悩んだ。
「やはり、無実であろうか?」
「私もそうかと思います」
 が、小黒麻呂が口をはさんだ。
「たとえ無実でも、皇太子をこのままにしておけば、いずれ災いをなすものと存じます。かつて天智天皇は、弟天武天皇に情けをかけてしまったために、御子息
(大友皇子)を殺されました。そうならないためには、天を分裂させてはなりません。もし、帝が敬愛する藤原百川卿が存命であれば、彼もまた、皇太子を排除したでしょう。井上内親王や、他戸親王(おさべしんのう)のように」
「百川か……」

●藤原種継暗殺事件主要処罰者●

処罰者 身分・関係 処罰
早良親王 皇太子。藤原種継の政敵。 流刑
(途中没)
大伴家持 中納言・東宮大夫。
早良親王の側近。
官位剥奪
・荘園没収
大伴継人 左少弁。大伴古麻呂の子。 死刑
大伴竹良 大伴家持の一族。 死刑
佐伯高成 大伴家持の支族。 死刑
大伴真麻呂 主税頭。大伴家持の一族。 死刑
大伴湊麻呂 大伴家持の一族。 死刑
多治比浜人 東宮主書首。早良親王の側近。 死刑
牡鹿木積麻呂 中衛舎人。暗殺の実行犯。 死刑
伯耆桴麻呂 近衛舎人。暗殺の実行犯 死刑
大伴永主 大伴家持の子。 流刑
大伴国道 大伴継人の子。 流刑
紀白麻呂 東宮亮。早良親王の側近。 流刑
五百枝王 右兵衛督。早良親王の従兄弟。 流刑

 十月某日、桓武天皇は宮内卿(くないきょう)石川垣守(いしかわのかきもり)を乙訓寺に遣わした。
「皇太子を廃し、淡路
へ流刑に処す」
 早良親王は呆
(ほう)けているようであった。
 絶食しているので、ぐったりしていた。
「る、け、い〜?」
 フニャフニャしたまま、彼は船に乗せられた。
 淀川を下り、難波の海
(大阪湾)に出れば、すぐに淡路である。
 早良親王が横たわったまま聞いた。
「私を廃して、誰を皇太子にするつもりですか?」
 垣守が答えた。
「まだ決まっておりません」
「ふん。安殿のくせに」
 船はどんどん淀川を下っていった。
 その間、早良親王はずっとブツブツ恨み言を言っていた。
「私は何も悪いことをしていない……。このままでは終わらせない……。このままですむものか……。絶対に復讐
(ふくしゅう)してやる……。みんなみんな、たたり殺してやる……」
 摂津の高瀬橋
(たかせばし。大阪府守口市)を通り過ぎた頃、早良親王は突然騒ぎ始めた。
「船酔いした! 吐きそう!」
 垣守は慌てて、早良親王を船べりへ移動させ、存分に吐かせた。
「うげぇぇぇぇ〜。うべぇぇぇぇ〜」
 その間、早良親王から顔をそむけていた垣守であったが、首をかしげた。
(おかしい。そういえば、このところ親王は何も飲み食いしていなかったはずだ。いったい何を吐いているのだろう?)
 はっとして、早良親王の顔を見てみると、すでに血の気が失せ、事切れていた。舌をかみ切って自殺したのであろう。川面が真っ赤に染まっていた。
 垣守は舌打ちした。
「しまった……」
 早良親王の享年は三十六。

 早良親王の遺体は、そのまま淡路へ送られ、淡路で葬られた。

 十月八日、桓武天皇は、中納言・藤原小黒麻呂らを天智天皇(京都市山科区)へ、治部(じぶ)卿・壱志濃王(いちしのおう。湯原親王の子。桓武天皇の従兄弟)らを光仁天皇(当時の葬地は不明。現陵は奈良市)へ、中衛中将(ちゅうえちゅうじょう)紀古佐美(きのこさみ)らを聖武天皇(奈良市)へ遣わし、早良親王を廃して流刑にした理由を報告させた。
 そして十一月二十五日、安殿親王を立太子させたのであった。


「私は何も悪いことをしていない……。このままでは終わらせない……。このままですむものか……。絶対に復讐してやる……。みんなみんな、たたり殺してやる……」

(「怨霊味」へつづく)

[2005年4月末日執筆]
参考文献はコチラ

 ※ 早良親王の死は衰弱死とも考えられますが、この物語では自殺としました。

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