1.連殺! 藤原乙牟漏ら!!〜 死人だらけ | ||||||||||||||
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早良親王は死んだ。
延暦四年(785)十月、摂津の高瀬橋(たかせばし。大阪府守口市)のたもとにて、淀川(よどがわ)の藻屑(もくず)と消えた。
ただ、彼の怨念だけは、いつまでも消えることはなかった。
「私は何も悪いことをしていない……。このままでは終わらせない……。このままですむものか……。絶対に復讐(ふくしゅう)してやる……。みんなみんな、たたり殺してやる……」
早良親王 PROFILE | |
【生没年】 | 750-785 |
【別 名】 | 早良王・親王禅師・崇道天皇 |
【出 身】 | 山背国大枝?(京都市西京区) |
【職 業】 | 皇族 |
【役 職】 | 皇太子(781-785)←南大寺・東大寺の要職 |
【 父 】 | 光仁天皇(施基親王の子) |
【 母 】 | 高野新笠(和乙継の娘) |
【兄 弟】 | 開成・桓武天皇(山部親王)・能登内親王 ・弥努摩内親王・酒人内親王・稗田親王 ・他戸親王・広根諸勝 |
【妻 子】 | ナシ |
【甥 姪】 | 安殿親王・神野親王ら |
【従兄弟】 | 神王・壱志濃王ら |
【墓 地】 | 八嶋陵(奈良県奈良市) |
【霊 地】 | 上御霊神社(京都市上京区) ・下御霊神社(京都市中京区) ・崇道神社(京都市左京区) ・藤森神社(京都市伏見区) ・崇道天皇神社(兵庫県たつの市) ・御霊神社(大阪市中央区・京都府加茂町 ・高知県高知市ほか)ほか |
十数日後、河内で洪水が起こった。堤防三十か所が決壊する大洪水であった。
「全く、嫌な役回りだった」
延暦五(786)年五月、独り言で夜酒を飲んでいたのは、宮内卿(くないきょう。宮内省長官。宮内庁長官)石川垣守(いしかわのかきもり)。
早良親王を淡路へ護送した、あの男である。
「まさか、死ぬとは思わなかった……。早良親王はバカだ! おとなしく島流しにされていれば、許される可能性もあったのに」
(ないですよ)
「死んでしまえば、言い訳も仕返しもできないではないか!」
(それができるんですよ。ヒッヒッヒ!)
垣守は耳を疑った。
今、誰かが笑ったような気がした。
「え?」
隣の房(へや)で妻子は寝ていた。寝言を言ったとも思えない。
「気のせいか」
飲み直そうと元の房に戻ると、サーッと影のようなものが目の前を横切った。
「へ?」
垣守が立ち尽くしていると、影は先ほど彼が座っていた席にスウーッと座った。
それは、見覚えのある男であった。
でも、もういるはずのない男であった。
垣守は恐怖した。足がガタガタ震えてきた。
彼はありえないその名を口にした。
「さ、さっ、さわら……」
(どうも〜)
影はニタ〜ッと笑った。
開いた口から血がタラララ滴り落ちた。
「ぎゃあぁあぁあぁぁー!!!」
翌日、右大臣・藤原是公(ふじわらのこれきみ)が暗い顔で告げた。
「昨夜、垣守が死んだそうです」
桓武天皇は首をかしげた。
「カキモリ?
はて、誰だったかな?」
「宮内卿・石川垣守。ほれ、廃太子を連行し、死んでもなおその遺体を淡路まで護送した男ですよ」
「ああ」
桓武天皇は思い出した。
同時に嫌なことも思い出して、ムッとした。
「そういったことで思い出させるな」
「申しわけありません。真っ先に思い付きましたので」
「右大臣は人が悪い」
「へへへ。それにしても垣守は、この世のものとは思えぬほど、ものすごい形相で生き絶えていたそうですよ」
「……」
是公はにじり寄った。小声で桓武天皇に聞いた。
「帝は廃太子の夢とかは御覧になられますかな?」
「いや。見ないよう心がけている」
「私はよく見るんですよ〜。昨晩も見てしまいました」
是公はニッと笑った。その顔は、おどろおどろしかった。
桓武天皇は顔をそむけた。
「もう早良の話はいい。朕(ちん)も汝(なんじ)も生きているんだ。もっと明るい楽しい話をしようではないか!」
「いえいえ。私だけ怖いのはしゃくですのでお話します。昨晩出てきた廃太子は、気になることを言っておりました。『今年初めに死んだ坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ。田村麻呂の父)は、実は私がたたり殺したんですよ。なぜ殺したかは、帝はよく御存知ですよ』と」
桓武天皇はゾワゾワ悪寒を感じた。
かつて坂上苅田麻呂は、大伴家持や早良親王の一味であった。
いわゆる旧勢力の一員であった彼を、桓武天皇が味方に引き込み、その証として娘・又子(またこ)を後宮に入れたのであった。
「自分たちを裏切ったから殺したというのか……」
「はい。また『垣守を殺したのも、最近チマタで頻発している地震・雷・火事・洪水なども、みんなみんな私の仕業なんですよ』と、腹を抱えて笑っておりました」
桓武天皇は不機嫌になった。
「やめんか! そういったことは陰陽寮(おんみょうりょう。吉凶・気象担当庁)が報告するものだ! そんな報告は聞いていない! 朕は信じんぞ! 信じる者こそたたられるのだ!」
「そう言っていた種継(たねつぐ)は、殺されました」
「やかましい! 朕は死なんぞ! 朕にはまだやることが山ほどあるのだ! たとえ殺されても、死んでたまるかっ!」
この年一月、桓武天皇は前年に従三位に昇格させていた藤原百川(ももかわ)の娘・旅子(たびこ・りょし)を夫人(ぶにん。準皇后)にした。
皇后・藤原乙牟漏(おとむろ。藤原良継の娘。安殿親王の母)に次ぐ地位、夫人・藤原吉子(よしこ・きっし)と同格としたのである。
追いつかれた吉子の父は、例の是公。
是公はおもしろくなくて、六月に尚縫(ぬいのかみ。後宮のナンバーツー)藤原諸姉(ふじわらのもろね)が死んだときも、桓武天皇に怪談話を持ちかけてきた。
「あーあ。帝が旅子夫人を寵愛(ちょうあい)なさるから、諸姉は廃太子の怨霊にたたり殺されたんですよ。間違いないっ」
諸姉は良継の娘であり、百川の未亡人であり、旅子の生母であり、乙牟漏の姉であった。つまりバリバリの式家女だったため、どちらかといえば井上内親王(いのうえないしんのう)の毒牙(どくが)の餌食(えじき)になったのかも知れない。
桓武天皇は言い返した。
「くどい! 諸姉は寿命で死んだのだ! 何が怨霊だ! 朕を襲う怨霊がいれば、朕を守る神霊もいるはずだ!
百川の霊がそうだ! 種継の霊もそうだ! 父の霊も、諸姉の霊も、その他祖先神、賀茂神(上賀茂・下鴨神社。京都市北区・左京区)や松尾神(松尾大社。京都市西京区)など山背の地主神たちも、みなみな朕らを守ってくれるであろう!」
七月、桓武天皇は唐(とう)出身の天才医師・羽栗翼(はぐり・はくりのつばさ)を内薬正(ないやくのかみ。内薬司長官。薬剤師の長)・侍医(じい。皇室担当医)に任じた。
「どんなもんだ。これでもう誰一人死なせぬ!」
十月には父・光仁天皇を改葬、松尾神に従四位下を与え、翌年十一月には、河内の交野柏原(かたのかしわばら。大阪府枚方市)に天神を奉祭した。
「これで神霊たちもみな、朕の味方になった!」
結果、延暦七年(788)五月に旅子は死んだ。まだ三十歳の若さであった。
「たたりじゃ〜」
と、繰り返していた是公も、延暦八年(789)九月にぽっくり死んだ。こちらは享年六十三。
翌月には、桓武天皇の母・高野新笠(たかののにいかさ)も、
「わらわもようよう早良のところに行けるわい。いひっ!」
と、生き絶え(享年不明)、その翌年には、最愛の乙牟漏も倒れた。
「どうした?」
桓武天皇が揺さぶっても、乙牟漏は、
「ううう……」
うめくだけであった。
ただちに侍医・羽栗翼が飛んできた。
乙牟漏を診察したが、首をかしげた。
「なんでしょう、この病は?」
桓武天皇は怒った。
「それを汝に聞いているのではないか!」
「うーん。どーでしょう? こんな病気はいまだかつて聞いてことがありません」
「ま、まさか、汝までが怨霊のせいだというのか!」
「いえ。私は医者ですので、そういった迷信的なことは申しません」
「では、何という病気なのだ!?」
「……。はーて?」
母重症の知らせを聞いて、皇太子安殿親王もゼエゼエ息を切らして駆けつけてきた。
そして、だびだびの泣き顔で乙牟漏に飛びついてわめいた。
「母上ぇえぇえぇ〜!」
「ええい!」
桓武天皇は緊急に勅を発した。そこらにいた人々を片っ端から指して指して指しまくって命令した。
「汝も、汝も、汝も、汝も、汝も、乙牟漏のために出家するのだ! 今すぐ頭をそれっ!
ツルツルにするんだっ!」
「え、私も?」
「おれも?」
「え〜、ツルツル〜ゥ」
「今すぐぅ〜」
「全員だ! 今すぐ坊主になるんだ! そして、乙牟漏のために大音声で読経するんだっ!」
こうして二百人が即日出家させられ、ろくすっぽ知らないお経を唱えさせられた。
さらに桓武天皇は、京内・畿内のすべての貧乏人・病人・老人・障害者などに物を恵み与えるよう、お触れを発した。
「ケチるなよ! ありったけのものをお恵みしまくるのだっ! 殺されてたまるか!
負けてたまるかっ! 神も仏も人もすべてを味方につけ、みんなしてみんなして忌まわしき病魔を追い払うのだっ!」
が、その甲斐なく、乙牟漏はその日のうちに帰らぬ人になってしまった。享年三十一。延暦九年閏三月十日のことであった。
「乙牟漏ぉおぉー!」
「母上ぇえぇー!」
その晩、大音声の読経は、大音響の泣き声にかき消された。