44.怨霊味 基礎用語集

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

蝦夷(えぞ・えみし)
 古代、主に東日本に住んでいた人々。大和朝廷の征伐を受け、次第に北方に追いやられた。アイヌかどうかについては諸説ある。

恵美押勝(えみのおしかつ)の乱=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱
 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。恵美押勝)が孝謙(こうけん)上皇に対して起こした反乱。764太師(太政大臣)・藤原仲麻呂は、孝謙上皇のお気に入りの僧・道鏡(どうきょう)を除こうとして反乱を起こすが、吉備真備(きびのまきび)の采配(さいはい)や藤原式家(しきけ)の人々の活躍などにより近江にて敗死。これにより、仲麻呂が擁していた淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇は称徳天皇として再び即位、道鏡が専横した。
日朝味6

大伴家持(おおとものやかもち)
 (718?-785)公卿。歌人。中納言。三十六歌仙の一。大伴旅人(たびと)の子。内舎人(うどねり)として聖武(しょうむ)天皇に仕え、越中守(えっちゅうのかみ)・薩摩守(さつまのかみ)・衛門督(えもんのかみ)等を経て、780参議に就任、782氷上川継(ひかみのかわつぐ)の変に関係して解任されるが、783中納言(ちゅうなごん)に昇り、『万葉集』を編集したと思われるが、785藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関わった罪で死後に処罰された。怨念味1

桓武天皇(かんむてんのう)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。怨念味
怨霊味 ヤミ味

薬子の変(くすこのへん)=平城上皇の変(へいぜいじょうこうのへん)
 式家の藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(ふじわらのくすこ)らにあおられた平城上皇(へいぜいじょうこう)が嵯峨(さが)天皇に対して起こした反乱未遂事件。809平城天皇は病気のため弟・嵯峨天皇に譲位、旧都・平城京へ移るが、仲成・薬子らにそそのかされて重祚(ちょうそ。再即位)と平城京還都を計画、810嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)・藤原冬嗣(ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどのとう)に任じ、反乱計画を察知、平安京で仲成を逮捕・射殺した。一方、平城上皇は東国へ行こうとするが失敗して出家、薬子は自殺し、皇太子・高岳親王(たかおかしんのう。高丘親王とも。平城天皇皇子)は廃された。これにより式家は衰退し、北家が台頭した。

称徳(しょうとく)天皇孝謙上皇(こうけんじょうこう)←孝謙天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 伝四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、まもなく不和となって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧し、再び天皇に即位、百万塔(ひゃくまんとう)を作らせ、寵愛する道鏡(どうきょう)を大臣禅師に765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に766法王(ほうおう)にし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)らに阻まれた(宇佐八幡宮神託事件)。

玄ム(げんぼう)
 (?-746) 法相宗の僧。僧正。717-735唐に留学、737僧正に就き、皇太夫人・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気を治癒、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となって国分寺建立・大仏造営に深く関与するが、藤原仲麻呂(なかまろ)に圧迫されて大宰府の観世音寺(かんぜおんじ)に左遷、配所にて怪死した。

光仁天皇(こうにんてんのう)←白壁王(しらかべおう)
 (709-781) 伝四十九代天皇(在位749-758,764-770)。施基(しき)親王王子。天智(てんじ・てんち)天皇の孫。聖武(しょうむ)天皇皇女・井上(いのうえ・いのえ)内親王と結婚し、大納言に昇進、770称徳(しょうとく)天皇没後に藤原永手(ふじわらのながて)・藤原百川(ももかわ)らに推されて即位し、道鏡(どうきょう)を追放、行政改革を行った。
ヤミ味

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。

参議(さんぎ)
 太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加した。令下官(りょうげのかん)の一つ。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・将軍
 蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。将軍味

新羅(しらぎ・しんら)
 (前57?-935) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀前半に辰韓(しんかん)十二国を統一、唐と連合して西の百済(くだら)と北の高句麗(こうくり)を滅ぼし、684朝鮮半島を統一するが、935高麗(こうらい)によって滅亡した。
紙幣味

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。705その下に中納言が置かれた。

多賀城(たがじょう)
 古代、陸奥にあった城柵(じょうさく)。宮城県多賀城市所在。724大野東人(おおののあずまひと)が築城し(それ以前にも柵は存在)、762藤原朝狩(ふじわらのあさかり)が修築、陸奥国府と鎮守府が置かれ、東北統治と蝦夷征討の拠点となったが、鎮守府は802造営された胆沢城(いさわじょう)に移された。城跡は国指定特別史跡。

太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
 律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・なかのおおえのみこ)
 (626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の第一皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足(なかとみ・ふじわらのかまたり)とともに645蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)父子を滅ぼし、大化の改新を断行、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐(とう)・新羅(しらぎ・しんら)に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成し、671大友皇子(おおともおうじ・おおとものみこ)を太政大臣(だじょうだいじん)に任じて後継とした。
日朝味5

天武天皇(てんむてんのう)・大海人皇子(おおあまのおうじ・おおあまのみこ)
 (631?-686)伝四十代天皇(在位673〜686)。舒明天皇の皇子。天智天皇の弟。672壬申(じんしん)の乱で大友皇子(おおとものおうじ)を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位、684八色(やくさ)の姓(かばね)を制定し、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を編集させた。

道鏡(どうきょう)
 (?-772) 法相宗(ほっそうしゅう)僧。義淵(ぎえん)・良弁(ろうべん)の弟子。孝謙上皇(こうけんじょうこう。称徳天皇)の病気を治して信任され、763少僧都(しょうそうず)・764大臣禅師・765太政大臣禅師と昇進、西大寺(さいだいじ)を建立し、766法王(ほうおう)に就任、769宇佐八幡宮の神託を利用して皇位をねらったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、称徳(しょうとく)天皇没後に失脚した。女帝味

長岡京(ながおかきょう)
 (784-794) 奈良時代末期の首都。784桓武(かんむ)天皇が遷都して造営開始。京域は京都盆地西部。785造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし・ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてから工事が進まなかった。現在、発掘が進められている。怨念味

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

秦氏(はたうじ・はたし)
 古代に繁栄した氏族。氏祖は応神(おうじん)天皇の代に百済(くだら)?から渡来した弓月君(ゆづきのきみ)。本拠は山背(やましろ。山城)国葛野(かどの)郡。養蚕・機織を広め、広隆寺(こうりゅうじ)を創建、784長岡京遷都・794平安京遷都に協力した。

藤原薬子(ふじわらのくすこ)
 (?-810) 女官。尚侍(ないしのかみ)。藤原種継(たねつぐ)の娘。藤原縄主(ただぬし)に嫁いで三男二女をもうけ、娘と共に皇太子時代の平城(へいぜい)天皇に近侍、一時桓武(かんむ)天皇に退けられるが、平城天皇即位後に再び接近、尚侍として後宮で権勢を誇るが、809平城天皇の譲位によって失墜、810兄・仲成(なかなり)とともに平城上皇をそそのかして反乱を企てるが、嵯峨(さが)天皇に察知されて失敗、平城京で自殺した(薬子の変)。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)・恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って近江で兵を挙げ、敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
日朝味6

平安京(へいあんきょう)
 (794-1868) 平安〜江戸時代の首都。京域は京都盆地北部。東西約4.5q。南北約5.2q。794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。

平城天皇(へいぜいてんのう)・平城上皇・安殿親王(あてしんのう)
 (774-824) 伝五十一代天皇(在位806-809)。桓武(かんむ)天皇の皇子。嵯峨(さが)天皇・淳和(じゅん)天皇の兄。785父の皇太子になり、806父の死によって即位、観察使(かんさつし)を設置し、参議を廃したが、809病気のため神野親王(かみのしんのう。嵯峨天皇)に譲位、801藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(くすこ)兄妹らの勧めで復位と平城京還都を画策して失敗し、仲成は射殺され、薬子は自殺、自身は出家した(薬子の変)。怨念味 怨霊味

法相宗(ほっそうしゅう)=唯識宗(ゆいしきしゅう)
 南都六宗の一つ。万物の諸相を明らかにしようとする仏教の宗派。玄奘(げんじょう。三蔵法師)の弟子・基(き。慈恩大師)が確立し、日本には七〜八世紀に道昭(どうしょう)・智通(ちつう)・智鳳(ちほう)・玄ム(げんぼう)らが将来、元興寺(がんごうじ)と興福寺(こうふくじ)に伝えられた。現在の本山は興福寺と薬師寺(やくしじ)。 

万葉集(まんようしゅう)
 
現存最古の和歌集。770頃完成。20巻。大伴家持(おおとものやかもち)の編集か。万葉仮名で記される。約四千五百首を収録。雑歌(一般歌)・相聞歌(恋愛歌)・挽歌(哀悼歌)に分類される。
怨霊味4

源義経(みなもとのよしつね)←遮那王(しゃなおう)←牛若丸(うしわかまる)
 (1159-1189?) 武将。源義朝の子。母は常盤御前。源頼朝らの異母弟。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けて育ち、1180兄の挙兵に参加、1184源義仲(よしなか)を滅ぼし、一の谷(いちのたに)の戦・屋島(やしま)の戦・1185壇の浦(だんのうら)の戦で平氏を破って滅ぼしたが、頼朝と不和になり、陸奥平泉(ひらいずみ)で藤原泰衡(やすひら)に殺された(北海道以北に落ちのびたという説もある)。衆道味 強行味
番号味

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)らと戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦で大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじかわ)の戦で平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。不倫味 
排除味

六国史(りっこくし)
 奈良〜平安時代にかけて編集された正史のこと。以下六つ。

書名
(よみかた)
成立年 巻数 (編集命令者)
編集者
編集範囲
日本書紀
(にほんしょき)
養老四年
720
30+1 (天武天皇・元明天皇ら)
舎人親王・紀清人・三宅藤麻呂ら
神代〜持統
(-697)
続日本紀
(しょくにほんぎ)
延暦十六年
797
40 (桓武天皇)
菅野真道・藤原継縄
・秋篠安人・中科巨都雄ら
文武〜桓武
(697-791)
日本後紀
(にほんこうき)
承和七年
840
40 (嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇)
藤原緒嗣・藤原冬嗣・藤原貞嗣
・良岑安世・源常・清原夏野ら
桓武〜淳和
(792-833)
続日本後紀
(しょくにほんこうき)
貞観十一年
869
20 (文徳天皇)
藤原良房・春澄善縄
・伴善男・安野豊道ら
仁 明
(833-850)
日本文徳天皇実録
(にほんもんとくてんのうじつろく)
元慶三年
879
10 (清和天皇・陽成天皇)
藤原基経・南淵年名・菅原是善
・大江音人・善淵愛成・都良香
・島田良臣ら
文 徳
(850-858)
日本三代実録
(にほんさんだいじつろく)
延喜元年
901
50 (宇多天皇・醍醐天皇)
源能有・菅原道真・藤原時平
・大蔵善行・三統理平ら
清和〜光孝
(858-887)

※日本書紀の+1は系譜一巻(現存せず)

和気清麻呂(わけのきよまろ)
 (733-799) 官人・公卿。姉・和気広虫(ひろむし。法均尼)とともに孝謙(こうけん。称徳)天皇に仕え、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍、769道鏡皇位事件(宇佐八幡宮神託事件)で法王・道鏡(どうきょう)の即位を阻止するが、大隅へ流刑にされ、771赦免、摂津大夫(せっつのだいぶ)・民部大輔(みんぶのたいふ)・中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)を兼ね、長岡京(ながおかきょう)造営に尽力、桓武(かんむ)天皇に平安京遷都を進言し、その造宮にも携わった。
女帝味

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