4.加藤次景廉 | ||||||||||||||
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ボク、加藤景廉(かとうかげかど)。
通称藤次郎。
外見的特徴は若造。いわゆるペーペー。
源頼朝の挙兵では山木兼隆(やまきかねたか。平兼隆)を、比企氏(ひきし)の乱直後には仁田忠常(にったただつね)を討ち取ったり、「金さん」で有名な遠山氏の先祖になっちゃったりするんですが、まだまだ先の話(「加藤氏系図」参照)。
今は工藤茂光さんに従って源為朝征伐に従軍しています。
ですが、さっき、とんでもないものを見ちゃいました!
な、ななっ、なんと、目の前で工藤さんが乗った船が沈没しちゃったんです!
おかげでたくさんの人が海に投げ出されて溺れ死にましたが、工藤さんは悪運――、じゃなくて、運よく救助されていました。
沈没の原因は為朝が放ったたった一本の矢です。
それが船腹を貫通し、できた穴から浸水して沈没しちゃったそうです。
ありえない話ですが、実際に目の前で起こっちゃいました!
「為朝、怖ぇぇ〜」
大将の船がやられた寄せ手は消沈し、上陸してはみたものの、誰も為朝邸に踏み入る勇気のある者はおりません。
ボクはみんなを誘いました。
「踏み込もうよ!」
「どこに?」
「為朝邸に決まっているじゃないか!」
「やだ。怖いもん」
「怖がってちゃ手柄を立てられないじゃないか!」
「そんなら、あんただけ行けば〜」
「みんなで行くんだよっ!」
「あんたも怖いんだ〜」
「そんなんじゃねえよ!」
「分かった。みんなで行くけど、あんたが一番先に行け」
「何だよ〜」
結局、ボクは先頭に押しやられました。
裏口が開いていたので、ボクは振り返ってみんなに言いました。
「ここから入るから、音を立てないように」
「ああ、入れ」
「みんなついていくから」
ボクは足音を潜ませて、中に入っていきました。
耳を澄ませてみましたが、中では何の物音もしません。
死んでる郎党や子供は転がっていましたが、生きてる人がいるような気配はありませんでした。
「誰もいないな〜」
それだけではありません。
進行方向だけではなく、背後にも人がいる気配がしなくなったのです。
「あれ?」
ボクは振り返りました。
ボクについてきたはずのみんなは、誰もいなくなっていました!
(みんな逃げてるじゃないか〜)
たった一人にされたボクは焦りました。
でも、せっかくここまで来たので、もう少し様子を見たくなりました。
(あとは奥の部屋だけだ。パッのぞくだけのぞいておこう)
ボクは部屋をソーッとのぞいてみました。
血だまりが目に入りました。
で、その先にうつぶせている大男が見えたのです。
ボクは仰天しました。
(為朝だ!間違いねえー!)
思わず逃げかけましたが、
(あんなに血が出てたら死んでるだろ!)
と、思い直し、別の壁の回り込み、背後からソーッとのぞき直してみました。
為朝はピクリとも動きません。
(死んでる?)
ボクは薙刀(なぎなた)を思いっきり伸ばし、為朝の背中をチョンチョンつついてみました。
何の反応もありません。
(死んでる!)
ボクは確信しました。
で、彼の首を打ち取って、手柄を立てることができたのです。
嘉応二年(1170)五月、ボクが討ち取った為朝の首は京都に運ばれ、二条京極にさらされました。
時の帝(高倉天皇)も首を御覧になったということです。
[2013年10月末日執筆]
ゆかりの地の地図
参考文献はコチラ
※ 大分県宇佐市の柁鼻(かじばな)神社には、為朝が弓を立て掛けたという弓立石があります。
※ 福岡県香春町の鎮西原には為朝の館があったそうです。
※ 長崎県諫早市の御館山稲荷神社の「御館」も、為朝の館があったことに由来するそうです。
※ 足利義兼(あしかがよしかね。「足利氏系図」参照)は為朝の子だという説があります。
※ 京都市上京区の白峰神宮には、源為義・為朝父子を祭る伴緒社(とものをしゃ)があります。
※ 為朝は新島でも土屋平右衛門の娘・丹千代と結婚して子をなしたそうです。
※ 為朝の没年は治承元年(1177)ともいわれています。
※ 為朝が死んだのは大島ではなく、八丈小島(八丈町)ともいわれています。
※ 大島で敗れた為朝は、三宅島に逃れた後、八丈島に渡ったといいます。三宅島の伊ヶ谷に為朝の館があったといいます。
※ 為朝は死なずに琉球へ逃れ、その子・舜天(しゅんてん)が琉球王になったともいわれています。
※ 山梨県韮崎市の為朝神社は元暦元年(1184)に武田信義が創建したといいます。
※ 神奈川県横須賀市の為朝神社は、寛政十二年(1800)に漁民が漂流していた為朝の木像を拾って祭ったのが始まりとされています。