1.上洛しないんかよ! 〜 足利義昭の嘆き

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朝倉義景はそれほど凡将ではなかった。
1.上洛しないんかよ! 〜 足利義昭の嘆き
2.裏切るんかよ!〜 織田信長の嘆き
3.逃がすんかよ! 〜 武田信玄の嘆き
4.滅びるんかよ! 〜 義景自身の嘆き

 初めまして。朝倉義景です。恐縮です。
 私は天文二年(1533)に生まれました。本人だから、誕生日も覚えています。九月二十四日です。同じ誕生日の方、ラッキーですな。あなたにも私と同じような運命が待ち構えていることでしょう。ヒッヒッヒ。――いかん。さわやかに語らねば、陰険だと思われてしまうではないか。

朝倉義景 PROFILE
【生没年】 1533-1573
【別 名】 孫次郎・延景
【出 身】 越前国一乗谷
(福井県福井市)
【本 拠】 越前国一乗谷館
【職 業】 戦国大名(越前国主)
【役 職】 管領代・越前守護
・左衛門督
【位 階】 従四位下
【 父 】 朝倉孝景
【 母 】 光徳院(武田元信女)
【 妻 】 細川義種女・細川晴元女
・小宰相(鞍谷嗣友女)
・小少将(斎藤兵衛女)
【 子 】 阿君丸・愛王丸ら
【一 族】 朝倉景高・景鏡・景健
・景紀・景綱・景恒ら
【主 君】 足利義輝・足利義昭
【盟 友】 浅井長政・顕如
・武田信玄・上杉謙信ら
【仇 敵】 織田信長
【部 下】 河合吉統・山崎吉家・前波景当
・前波吉継・魚住景固・富田長秀ら
【墓 地】 一乗谷朝倉館跡(福井市)
朝倉義景史跡(福井県大野市)

 私は越前一乗谷(いちじょうだに)、つまり現在の福井市で生まれました。同じ出身地の方、ラッキーですな。あなたにも私と同じような運命が待ち構えていることでしょう。ヘッヘッヘ。――いかんいかん! 下品だと思われてしまう。

 初め朝倉延景(のぶかげ)と名乗りましたが、後に室町幕府十三代将軍・足利義輝(あしかがよしてる。「剣豪味」参照)様から「義」の字を賜り「義景」と改名しました。同じ名前の方、あなたにも――。いかんいかんいかん! くどいと思われてしまう!

 父は越前国主で朝倉孝景(たかかげ)といいます。
 御存知ですかな?
 ふふん。同名の武将がいますからねえ。みなさんが御存知なのは、別名敏景
(としかげ)といった先代朝倉孝景のほうでしょう。
 ほれ。分国法「朝倉孝景条々
(朝倉敏景十七箇条)」を制定した、三代前の御先祖のことです。私の父はそれほど有名ではなかったはずですよ。
 また、母は若狭守護・武田元信
(たけだもとのぶ)の女で、光徳院(広徳院。こうとくいん)といいます。

 父は私が十六歳のときに死にました。私が家督を継ぎましたが、まだ未熟だということで、ジイ様・朝倉教景(のりかげ。朝倉宗滴。先代孝景の末子)が守役として出しゃばりました。
 ジイ様は朝倉家中きっての名軍師でしたが、加賀の一向一揆との戦闘の最中、私が二十三歳のときに病死してしまいます。

 ジイ様が死んだことをいいことに、加賀の一向一揆が攻めてきました。ジイ様は生前苦労してこれを破り、加賀半国を制圧したのですが、結局、その分をあっけなく奪い返されてしまいます。
 一向一揆の士気は上がりました。
「次は越前だ。越前の朝倉を滅ぼし、本願寺共和国の勢力を拡張するのだっ!」

 一向一揆とは、浄土真宗信者の集まりです。
 浄土真宗は鎌倉時代の異端児・親鸞が開いた仏教の一派ですが、この北陸に布教したのは、本願寺八世法主で、坊主なのに子沢山だった蓮如という怪僧です
(「北陸味」参照)

 彼らは念仏を唱えながら攻めてきます。聞いたことありますかな?
「進めば極楽、退けば地獄」
 だれだって地獄に落ちるのは嫌です。だから彼らは進みます。死を恐れません。地獄の苦しみは永遠ですが、死ぬ痛みは一瞬です。
 死を恐れない人間ほど怖いものはありません。私も怖かったです。一揆の構成員はほとんど農民ですが、甘く見てはいけません。何しろ数が多いんですな。ジイ様が戦った九頭竜川の大会戦
(くずりゅうがわのだいかいせん)では、一揆側は加賀能登越中その他諸国からなんと三十万人もの大軍を繰り出してきました。三十万ですよ! わずか二、三万そこそこの朝倉勢が本気で戦っても、勝てるわけがありません。一向一揆は無限です。我が朝倉勢は有限です。怒らせないように怒らせないように、頭をなでなでしておくのが一番です。でも、それはいつまでも通用する方法ではありません。

 私は考えました。「究極のキツネ」の威を借りることにしました。
 「究極のキツネ」とは、将軍様のことです。将軍足利義輝様
です。私は義輝様の調停で、一向一揆と和睦(わぼく)することに成功しました。まずはこれでひと安心です。
 でも、一向一揆はいつ何時不機嫌になるか分かりません。そのときのために次の手も考えました。越後の上杉謙信
(当時は上杉輝虎)と同盟を結んだのです。
「攻められるものなら攻めてみろ。そうすれば、あの謙信が貴様らの背後を突くぞ」
 謙信は義理堅い武将です。そして、その強さがハンパではないことは周知の事実です。
 将軍の超越的な権威と謙信の超人的な武力――。
 これではさしもの一向一揆も、おとなしくしているしかありません。
「しゃあない。このくらいにしといたろか」
 こうして私は、一向一揆越前侵攻を食い止めることができたわけです。

 ところが永禄八年(1565)、私の大事な究極のキツネ、つまり将軍義輝様が、悪党・松永久秀(まつながひさひで)や、その取り巻き・三好三人衆(三好長逸+三好政康+石成友通)によって殺されてしまいました(「剣豪味」参照)
 将軍の弟・義秋はびっくりして、
「助けてくれ! 殺される!」
 と、私のところへ逃げてきました。
 悪い気はしません。私は義秋をかくまい、これを元服させ、「義昭」と改名させました。
 そうです。私は将来の将軍の名付け親になったわけです。

 義昭は私に懇願しました。
「朝倉殿。兄の敵を取ってくれ。久秀や三好らを滅ぼして、私を将軍にしてくれ」
 このことが何を意味するか、私はバカではないので、分かりました。
(上洛して久秀ら悪党を倒し、義昭将軍にすることができれば、私は天下に号令することができる)
 そうです。天下です。私の手の中に義昭という「天下の素」が転がり込んできたのです。
 チャンスでした。今ならうるさい一向一揆も、謙信によって羽交い絞めにされています。じゃまな若狭の武田義統
(たけだよしずみ)・元明父子はたたきのめしました。謀反人の堀江景忠(ほりえかげただ)もやっつけました。京都までの道のりに敵もいません。盟友の浅井長政がいるだけです。
(なれる! なれるぞ! 私は越前の朝倉義景ではなく、天下の朝倉義景となるのじゃ!)

 私はこみ上げる喜びを押さえつけながら、力強く義昭に言いました。
「お任せください、義昭殿。――いや、将軍様には、私を初め天下無双の頑強軍団朝倉勢数万がお供いたしまする」
「おおっ、やってくれるか!」
 義昭は狂喜すると、京都から関白・二条晴良
(にじょうはるよし)を呼び寄せて、私を管領代(かんれいだい。将軍補佐代理)に任じました。
 この時点で私は「ポスト今川義元」、つまり、天下に一番近い男になったわけです。しかも私の場合、すでに装填
(そうてん)済みでした。義昭という実弾を込め、あとは京都に向けて発砲するだけになったのです。

 「いよいよ眠れる北の大国が動き始めたか」
 人々はうわさしたことでしょう。
「悔しいが、朝倉は天下人になるであろう」
 並み居る戦国大名たちは指をくわえてうらやましがったことでしょう。
 もちろん、そのときは私も自分が天下人になることを信じて疑いませんでした。
 私は愛児・朝倉阿君丸に言いました。
「お父さんは天下人になるんじゃ」
 幼い阿君丸もキャッキャ喜んでいました。
 阿君丸の母はいません。小宰相局
(こざいしょうのつぼね)といいましたが、数年前に死んでしまいました。彼女が死んだとき、私もすぐ後を追いたいほど悲しかったのですが、この子が不憫(ふびん)でならず、生き長らえてきたのです。私はこの子のためにも天下を取りたいと強く願いました。
「京都のウマ、見に行くの。ウマ! ウマ!」
 阿君丸は京都に行くのを楽しみにしていました。競馬を見に行くのをとても楽しみにしていました。京都競馬場ではありませんよ。賀茂
(かも)の競馬(くらべうま)です。

 それからほどなくして、あろうことか阿君丸は死んでしまいました。
「ウソじゃ!」
 私はにわかに信じられませんでした。しかし、残酷な現実は私の目の前にありました。
「阿君よ! 目を開けよ! そして、笑ってくれ〜!」
 私は悲しみました。泣き叫びました。私は最愛の女がたった一つこの世に残しておいてくれた最愛の子を亡くしてしまったのです。永禄十一年(1568)のことでした。
 義昭が尋ねました。
「そんなことより、いつ上洛するの?」
 私は義昭をにらみつけました。どなりつけました。
「そんなこととは何事じゃ! 阿君がいなくて、何が天下じゃ! そんなに京都に行きたいんだったら、一人で勝手に行けーっ!」
 義昭も怒り出しました。
「もう結構だ。おまえなんか嫌いだ。他の人に連れてってもらうからいい!」
 しびれを切らして私のもとを去って行きました。

 その年の九月、義昭は「他の人」とともに京都に上洛し、十五代将軍職に就きました。
「他の人」とは、あの織田信長でした。 

 

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