2.裏切るんかよ! 〜 織田信長の嘆き

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朝倉義景はそれほど凡将ではなかった。
1.上洛しないんかよ! 〜 足利義昭の嘆き
2.裏切るんかよ!〜 織田信長の嘆き
3.逃がすんかよ! 〜 武田信玄の嘆き
4.滅びるんかよ! 〜 義景自身の嘆き

 織田信長――。
 この男を、ジイ様朝倉教景は非常に買っておりました。
 ジイ様は死ぬときにぼやきました。
「ああ、あと十年、いや、五年生き延びて、天才信長の行く末を見届けたいものじゃ」

 私は鼻で笑っていました。
 当時の信長は、まだ本拠の尾張平定にもてこずっている状態でした。
 私はおもしろくありませんでした。
「なんてジイ様だ。自国の私より、敵国のヤローの将来を気にするとは――。しかも、尾張信長じゃあ? ヤツは近々上洛する今川義元によって滅ぼされる運命ではないか」

 ところが、信長義元を一撃のもとに倒してしまいました(「最強味」参照)。そして美濃の斎藤竜興(さいとうたつおき)をぶっ飛ばし、南近江の六角義賢(ろっかくよしかた。六角承禎)を蹴(け)散らして、私が捨てた足利義昭と一緒に京都に上洛したのです。

「ジイ様の言うことも、まんざらではなかったな。今川を倒したのはまぐれであろうが、斎藤・六角との戦いは確実に勝ちにいっている」
 私は思いましたが、信長の才能を認めたくはありませんでした。
 信長は私より一歳年下です。なぜか人は同年代同分野の者に対して非常に意識するものです。そいつがわずかでも年下なら、負けたくはないと思うのは当然でしょう。

 上洛して義昭将軍にすえた信長は、すぐに天下人のように振舞い始めました。
「もともと私の掌中
(しょうちゅう)にあった天下ではないか」
 私は腹が立ってきました。
「あの時私は悲しんでいた。かけがえのない愛児を亡くし、とても天下どころではなかったんじゃ」
 悲しみは、時とともに忘れていきます。新しい妻・小少将
(こしょうしょう)を迎え、新しい子・朝倉愛王丸(あいおうまる)をもうけることによって薄れていきました。
 悲しみが小さくなれば、後悔は大きくなります。あの時義昭を手放したことが、悔やまれて悔やまれてなりませんでした。

 その信長が、偉そうに私に指図しました。
「朝倉。上洛せい」
 ムカつきました。

 上洛すれば、私は信長に対して臣下の礼を取らなければならなくなります。拒否してやりました。
「私は管領代じゃ。無官で格下の貴様のほうが先にあいさつに来るのが礼儀というものじゃ」
 信長は怒りました。
「道理である。ならば余のほうからあいさつに行こう」

 元亀元年(1570)四月、信長はあいさつに来ました。
 子分の徳川家康も従え、総勢三万
(二万とも)の大軍で越前になぐり込みに来ました。
 信長は主張しました。
「余に歯向かうということは、将軍に歯向かうことと同じである。よって朝倉を謀反人として征伐する」

 ふん。最初からそうするつもりだったのです。
 織田氏は後に桓武平氏を称しますが、もともとは我が越前二宮・剣神社
(つるぎじんじゃ。劔神社。福井県越前町)の神官の出だといわれています。つまり、信長にとって越前は祖国なのです。祖国というものは自分の領地にしたいものでしょう。
「くれてやるものか」
 越前は私にとっても故郷です。かけがえのない、私の唯一の故郷です。私のすべてのできごとはこの地で起こりました。亡き妻との思い出も、亡き子の面影も、みなみなこの地に残りました。たとえ天下人であろうとも、この美しい故郷を渡すわけにはいきません。
 私は笑ってやりました。
信長の意思は将軍は意思じゃと。バカげたことをほざくな! 私は将軍の名付け親じゃ! いずれ将軍は私に味方する。将軍だけではない。畿内周辺の武将や一揆たちは、みなみな私に味方するのじゃ!」

 信長若狭石山(いしやま。福井県おおい町)城主・武藤友益(むとうともます)を降すと、我が領地越前に侵攻、我が手下・寺田釆女正(てらだうねめのじょう)守る手筒山城(てづつやまじょう。福井県敦賀市)を粉砕し、我が一族・朝倉景恒(あさくらかげつね)守る金ヶ崎城(かねがさきじょう・かながさきじょう。敦賀市)を占領、疋田城(ひきたじょう。疋壇城。敦賀市)などの支城も傘下に治めました。

 一乗谷では家臣たちが動揺します。
 いとこの朝倉景鏡
(かげあきら)が私に言いました。
「木ノ芽峠
(きのめとうげ。敦賀市・南越前町境)を突破されれば、織田軍はこの一乗谷になだれ込んできますぞ」
 私は笑って言いました。
「まもなく、信長は動揺する。敗走する。そして、完膚なきまでにたたきのめされるのじゃ」
「何か奇策がおありで?」
「奇策? どうかな? 私としては当然の成り行きだが、ヤツにとっては信じられないことかもしれないな」

 まもなく、立て続けに吉報がやって来ました。
「湖北の浅井長政、信長に反旗を翻しました!」
「六角義賢も南近江で兵を挙げました!」
 私は立ち上がりました。
「これでヤツは袋のネズミになった! 朝倉勢もただちに反撃に出よっ!」

 シリに火がついた織田軍は動揺しました。
「六角はともかく、長政が裏切ることなどありえぬ……」
 初め、信長は長政の裏切りを信じませんでした。
 長政は信長の妹・お市
(いち。小谷の方)のダンナです。同盟者です。しかし朝倉との親交は、それ以前からありました。
 このまま織田につくか。裏切って朝倉につくか――。
 血の同盟を選ぶか、それとも、義の同盟を選ぶか――。
 長政は迷ったことでしょう。私と信長を天秤にかけ、そして決めたのです。
信長は今は勢いがあるが、あまりに敵が多すぎる。戦うたびに敵を増やしている。一方、義景の敵は少ない。信長ぐらいしかいない。長い目で見れば、義景についたほうが無難だ。よし。義景につこう」

 長政の離反がまぎれもない事実だとわかると、信長の反応は素早いものでした。
「逃げるのだっ!」
 このとき、お市が密かに両端を縛った小豆入りの袋を兄に送り届けたという「袋の小豆」の逸話はよく知られています。

 織田軍は退却しました。敵前での撤退です。
 朝倉軍は喜んで追いかけました。今まで優位に攻めていた敵が、突然後退し始めたからです。逃げる織田軍を切り伏せ射倒し蹴り殺し、うれしそうに楽しそうに追いかけます。
 殿
(しんがり)木下秀吉が務めました。家康も申し出ましたが、客将を危険な目にあわせるわけにはいかなかったのでしょう。秀吉の前に回されました。
「上様を守るのじゃ〜!」
「痛い! 痛いってば! 死ぬじゃないかっ!」
「来るな! 寄るな! 越前へ帰れっ!」
 朝倉軍の追撃は執拗
(しつよう)でした。
「どうして逃げるの〜?」
「ほりゃほりゃ」
「攻めたれ! 攻めたれ!」
 京都も近くなって、ようやく朝倉軍は追撃をやめてあげました。

 信長は命からがら京都に帰ってきました。従う者わずか十人という、信長戦史史上最も惨めな負けっぷり、最もすばやい逃げっぷりでした。
 これが世にいう「金ヶ崎の退け口
(金ヶ崎の退き口)」です。
 その後をほうほうの体で家康秀吉らが戻ってきました。後世いう三英傑がそろって敗走したのは、この戦いだけです。つまり私は、三英傑をまとめて打ち破った、戦国史上唯一のすごい武将ということになります。

信長、恐るべき速さで京都に逃げ帰りました!」
 報告を受けて、私は舌打ちしました。
「袋のネズミが袋を食いやぶりおったか」
 しかし大勝利です。私は長政の助けを得たとはいえ、あの天才信長に大勝することができたのです!
「思い知ったか、信長! 私は貴様に勝ったのじゃ!」

 その晩、私は震いが止まりませんでした。興奮して武者震いを押さえることができませんでした。
「それにしてもどうだ、あの信長の疾風
(はやて)のような逃げっぷりは。やはりヤツは天才だ。おもしろい! ヤツとの戦いは、茶の湯連歌よりも断然おもしろい!」
 私は味を占めました。
「ヤツは必ず仕返しに来るであろう!」
 とっても楽しみでした。

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