3.逃がすんかよ! 〜 武田信玄の嘆き | ||||||||||||||
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京都から岐阜へ戻った織田信長は、いきり立っていました。
「おのれ朝倉義景・六角義賢! 特に裏切り者の浅井長政! 許さんぞっ!」
六月、信長が例のように家康を従えて仕返しにやってきました。湖北へ侵攻し、浅井の属城・近江横山城(滋賀県長浜市)を包囲したのです。
これ以前、南近江の六角義賢は、織田軍の柴田勝家に敗れて消沈しています。「甕破(かめわ。瓶割)り柴田」の逸話で知られるあの戦いのことです。
横山城は長政の本城・近江小谷城(おだに・おたに。長浜市)の目と鼻の先にあります。
「敵軍は三万以上!」
報告を聞いて、一万余りしか兵を持たない長政は、私に援軍を頼みました。
私は一族の朝倉景健(かげたけ)に兵一万をつけて送りました。これで朝倉・浅井連合軍は二万です。織田・徳川連合軍に比べれば少ないですが、城を守るには十分の数です。
私は出発する景健に告げました。
「まだ機ではない。機が熟せば私も出馬するであろう。決戦はそれからじゃ」
ところが、血気盛んな長政は出撃を決行、その動きを見破った織田・徳川軍と姉川(あねがわ)で出くわし、奮戦したものの、大敗を喫してしまったのです。
これが世にいう姉川の戦です。この戦いによって横山城は奪われ、朝倉・浅井軍優位の形勢は逆転してしまいました。
「長政め! 早まりおって!」
私は苦笑しました。
それでも長政は恩人です。責めるわけにはいきません。
「まあいい。好機は何度もやって来るものじゃ」
私はすでに手を打っていました。本願寺や延暦寺に挙兵を要請する書状を送りつけていたのです。義昭もそうですが、私も相当な手紙魔でした。
本願寺はいわずと知れた全国の一向一揆の総本山です。時の本願寺法主は十一世顕如(けんにょ。光佐)で、武田信玄とは義兄弟(妻同士が姉妹)の関係にあります。本拠は摂津石山(いしやま。大阪市中央区)にありました。
一方、延暦寺は、すでに平安時代から奈良の興福寺とともに南都・北嶺と並び恐れられた強力な僧兵たちを抱える最強武装寺院です。三百の堂宇が京都の東壁・比叡山に点在し、難攻不落な天空の要塞(ようさい)を形成していました。
「信長は我々も気に食わんよ」
まず、本願寺の顕如が動いてくれました。全国の一向一揆に蜂起を呼びかけてくれたのです。この翌年、私の娘の一人が、彼の長男・教如(きょうにょ。大谷派の祖)と婚約することになります。
また、本願寺とつるんでいた三好三人衆が、摂津野田(のだ)・福島(ふくしま。ともに大阪市福島区)で挙兵しました。
信長は三好三人衆を討つために出陣します。いや、ヤツの本当の目的は石山本願寺でした。
「大元の本願寺を倒せば、各地の一向一揆は沈静する」
そう考えて、石山本願寺を攻囲したのです。いわゆる石山合戦の始まりです。
この戦いには将軍・義昭もいやいや従軍しますが、すでに信長とは不和になっています。こっそり諸国の武将や一揆などに、
「信長を討て」
と、書状を書きまくっていました。
信長が石山本願寺へ向かったことを聞いて、私は喜びました。
「好機到来!」
私はついに自ら出陣すると、長政をそそのかしました。
「信長の主力は本願寺を攻めている。この虚をついて姉川の借りを返すのじゃ!」
長政も応じました。
九月、朝倉・浅井連合軍三万が織田方の宇佐山城(うさやまじょう。滋賀県大津市)を猛攻、その月のうちに城将・織田信治(のぶはる。信長の弟)・森可成(もりよしなり。蘭丸の父)らを討ち果たしました。
「どうだ、信長! 朝倉浅井は強いのじゃ!」
信長は慌てて石山本願寺攻撃を止め、取って返しました。
朝倉・浅井連合軍は余勢を駆って堅田(かたた。大津市)で応戦しましたが、数万の敵本隊相手に無理はしません。ちょこっと戦った後、うんこらうんこら延暦寺のある比叡山に登ります。
ここなら織田軍も攻めてこれません。要害堅固な上、強力な僧兵たちも味方です。巨大な山塊(さんかい)のため、兵糧攻めも不可能でしょう。
一番は、人間心理です。
「延暦寺は伝教大師最澄以来、何百年も続いてきた王城鎮護の霊場である。そのような霊域を攻撃すれば、バチが当たるぞ」
延暦寺は単なる天台宗だけの聖地ではありません。
浄土宗の法然も、ここで学びました。
浄土真宗の親鸞も、法華宗の日蓮も、ここで修行しました。
臨済宗の栄西も、曹洞宗の道元も、ここから巣立っていきました。
日本を代表する仏教の諸流派は、みなここから生まれたのです。いわば延暦寺は日本仏教のメッカなのです。ゆえにあらゆる仏教徒の武将たちは、決してここを攻撃することができないわけなのです。
比叡山からは、織田軍がアリのように見えます。アリたちは騒いでいるだけで、登って来れません。登ってきたとしても、蹴落としてやるだけです。やがてアリたちは各地で発火した炎を消しに行くことでしょう。行かなければ燃え広がります。我々はアリがいなくなった後で、難なく京都を制圧すればいいのです。そして、天下に号令すればいいのです。
摂津の三好三人衆は反撃に出ました。
南近江の六角もよみがえりました。
若狭の武田と武藤も再び信長にそむきました。
伊勢の長島一向一揆が尾張小木江城(こきえ・おぎえ。古木江。愛西市)を落とし、城主・織田信興(のぶおき。信長の弟)を殺してしまいました(「騒乱味」参照)。
「こういうことか……」
信長は私の魂胆に気づいたようです。自分がどのような窮地に立たされているか、分かったようです。ヤツは比叡山にこもる私たちに、決戦を申し入れました。
「いつまでもこうしてにらみ合っていても仕方がない。戦おうではないか!」
私は乗りません。血気盛んな長政も、今度は乗りません。
信長はあせりました。こうしている間にも、各地で次々と発火しています。燃え広がっています。
信長は考えました。苦肉の策として「究極のキツネ」、将軍・義昭を担ぎ出してきたのです。信長は義昭に脅しをかけました。
「将軍および朝廷に戦の調停をお願いしたい。もし承諾しなければ、京都は火の海と化すであろう!」
義昭は信長は嫌いですが、家の周りを火の海にされたくはありません。時の帝・正親町天皇(おおぎまちてんのう)だって嫌がりました。義昭はしぶしぶ信長の申し出を受け入れました。
「双方とも戦を止めて領国へ引き上げよ」
天子様と将軍様に命令されては仕方ありません。我々としても長引く戦で疲れ切っています。私も退きどきとみました。
十二月、私と信長は和睦(わぼく)し、互いに軍勢を引き上げました。
この和睦が形だけだということは、重々承知のことです。
しかし、私には勝算がありました。
「京都のすぐ東に比叡山という最強の要害がある限り、朝倉浅井は信長に負けることはありえない。我々はいつでも京都侵攻をうかがうことができ、戦いが起こるたびに信長は東奔西走させられるわけじゃ」
ところが翌元亀二年(1571)九月、信じられないことが起こりました。
数百年間そこにあり続けた延暦寺が、忽然(こつぜん)と消滅してしまったのです!
「何が王城鎮護の霊場だ。世を混乱に陥れ、凶賊に味方するような寺など、この世にいらぬわっ! 伽藍(がらん)・人間もろとも奈落(ならく)の底へ落ちよっ!」
信長は比叡山全山に放火を命じました。
これによって延暦寺・日吉(ひえ・ひよし)大社・無動寺ほか三百の伽藍はことごとく焼滅、多数の仏像・経典のほとんどが灰燼(かいじん)に帰し、僧俗男女老若区別なく三、四千人もの人々が虐殺されました。
これが後世いう延暦寺の焼打(延暦寺の焼き討ち)です。
私は震撼(しんかん)しました。信長を甘く見過ぎていました。
「まさかそんなことはしまい」
信長にはそういう考え方は一切通用しないのです。ヤツは邪魔なものを排除するためには目的を選ばず、どのような悪名をかぶることもいとわないのです。
私は信長と和睦して山を下りたことを悔やみました。
「結果的にヤツの思い通りの展開になってしまった。やはりヤツは常人ではない。ヤツの行為は常識を超越している。本当に天才じゃ! おもしろい! これでこそ戦いがいがあるというものじゃ! 倒しがいがあるというものじゃ! 倒してやる! 必ずやこの私がヤツ倒し、天下を取ってやる! ヤツは仕掛けてくる! かかってこい! この義景が返り討ちじゃ!」
翌元亀三年(1572)、信長は長政にとどめを刺すべく、その本拠・小谷城ののど元に虎御前山砦(とらごぜんやまとりで。長浜市)を造営、河内での三好義継(よしつぐ)・松永久秀の謀反を牽制(けんせい)した後、小谷城に総攻撃を開始しました。
「来た! 来た!」
七月、私は二万(一万五千とも)の兵を率いて救援に向かいました。もちろん自らの出陣です。ヤツとの戦いはもう人任せにできません。
しばらく見ないうちに、長政はすっかり元気をなくしていました。佐和山城(さわやまじょう。滋賀県彦根市)主・磯野員昌(いそのかずまさ)など有力な家臣の裏切りが相次ぎ、じわじわと信長によって領土を侵食されているからです。
(もはや長政の勢力は小谷城周辺だけではないか――)
浅井は風前の灯です。いつ何時、信長に滅ぼされても不思議ではなくなりました。
かといって、反信長勢力全体が衰えているわけではありません。
南近江では六角義賢が再三信長を裏切り、石山本願寺や三好三人衆も奮戦しています。
伊勢の長島一向一揆は頑強で、信長の最強部隊・柴田勝家隊も撃退してしまいました(「暴力味」参照)。
そして東国では、最強の戦国大名・武田信玄がとうとう動き始めたのです。
この頃、信玄は信長に対し、延暦寺の焼打を非難する書状を送っています。
その書状に信玄は「天台座主(てんだいざす。天台宗の親玉)・信玄」と署名したそうですが、これに対して信長は「第六天魔王・信長」と署名して返信してきたそうです(「惨敗味」参照)。
第六天魔王とは、欲界第六天(他化自在天)を支配し、仏教を信仰する人々の邪魔をするという悪魔・天魔波旬(てんまはじゅん)のことです。
信玄は激怒しました。
「うぬぬ……。倒さねばならぬ。ヤツだけは倒しておかなければならぬ!」
そして、信長討伐を決意したのです。
十月、信玄は大軍を率いて甲府を出発しました。実勢二万五千といわれていますが、信玄は四万とも六万とも吹聴しました。
信濃から遠江に入った信玄は、家康方の諸城を次々と撃破していきました。
同時に別働隊の秋山信友(あきやまのぶとも。虎繁)隊を美濃へ、山県昌景(やまがたまさかげ)隊を三河へ派遣、それぞれ華々しい戦果を挙げています。
まもなく信玄は山県隊と合流、三方原(みかたがはら。三方ヶ原。静岡県浜松市)で迎え撃った徳川・織田連合軍に大勝することになるのです(「惨敗味」参照)。
信玄は戦況を私や顕如のもとに書状で報告しています。
私は信玄の書状を見て仰天し、そして確信しました。
「なんてことじゃ。世の中にはまだ強い男がいる。家康は信玄の敵ではない。信玄は常に家康の先手を打って戦をしている。格が違うのじゃ。まもなく家康はつぶされ、鬼神信玄と天才信長の全面対決となるのじゃ。そうなっては信長に勝ち目はない。この四面楚歌(しめんそか)の状況では、譜代の家臣の少ないヤツは裏切りが裏切りを呼んで自滅していくのがオチ。これでヤツも終わりじゃ……」
私は空を見上げました。まもなく、寒い冬が来ます。そして、ヤツとの死闘も終末を迎えるのです。
うれしいのでしょうか? いえ、寂しい気がします。
ヤツとの戦いは、それはそれはおもしろいものでした。ワクワクする緊張感がありました。
雪がちらちらと舞い降りてきました。
「嫌だな……」
私は雪を払いのけました。
朝倉景鏡が言いました。
「一乗谷は大雪でしょうな」
私も言いました。
「雪が降れば、兵は身動き取れなくなる。食糧も運べなくなる。雪かきをしなければならないな。我々は撤兵するのじゃ」
景鏡はびっくりしたようでした。
「え、今なんと……」
「今から一乗谷へ帰ると言ったのじゃ」
魚住景固(うおずみかげかた)ら他の家臣たちも騒ぎ立てました。
「敵が目の前にいるではないですか!」
「撤兵すれば、信玄入道が怒りましょう。我々が西方で壁を成しているからこそ、信玄入道はこちらに押し出しているのではございませぬか!」
私は言い張りました。
「信長はもう浅井征伐どころではない。まもなく岐阜へ帰り、信玄との戦いの準備をするのじゃ。浅井はもう大丈夫じゃ。浅井救援の目的は果たした。長居は無用。帰って雪かきじゃ。我々男どもが雪かきをしなければ、いたいけな女子供がしなければならないではないか。かわいそうだと思わぬのか?」
景鏡らはしゅんとなりました。
私の脳裏に、妻子の姿が浮かびました。
「小少将や愛王丸たちががかわいそうじゃ」
信長の顔もよぎりました。
(信長は私の前で死ぬ男なんじゃ。ヤツにとどめを刺すのはこの私じゃ。信玄なんぞに邪魔されてたまるか。信玄なんぞに天下を渡してたまるものかっ。それくらいなら、天下はもう少し乱れたほうがいい)
十二月、私は越前へ撤兵しました。
信玄は驚きました。
「この重要なときになぜ帰る!」
顕如もびっくりしました。
「義景殿、気が違ったのか! 信長にとどめ刺す絶好機ではないかっ! 戻ってくるのじゃ!」
しかし、私は沈黙しました。
「春になったら出兵する」
それで通しました。
信玄は叫びました。
「春だと! わしにはもはや時間がない!」
翌天正元年(1573)四月、信玄は急死しました。
その死は内密にされましたが、うわさはすぐに広まりました。
「信玄が死んだ?」
私も驚きました。伝えた景鏡は言いました。
「信玄入道は『明日は瀬田(せた。大津市)に旗を立てよ』と遺言したそうです」
瀬田は京都のすぐ東にあります。信玄は死ぬ間際まで天下を夢見ていたのです。私の撤退が、よほどショックだったのでしょうか?
「まさか、信玄がこんなところで死ぬとは――」
私は改めて、その事実におびえました。
「信玄が死んだじゃと……。まずいじゃないか――」
そうです。信長の東の脅威は消滅したのです。ヤツはもう、全力でもって我々を攻撃することができるようになったのです。当然家康も加勢することでしょう。形勢はまたまた逆転しました。