4.滅びるんかよ! 〜 義景自身の嘆き

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朝倉義景はそれほど凡将ではなかった。
1.上洛しないんかよ! 〜 足利義昭の嘆き
2.裏切るんかよ!〜 織田信長の嘆き
3.逃がすんかよ! 〜 武田信玄の嘆き
4.滅びるんかよ! 〜 義景自身の嘆き

 七月、織田信長は、武田信玄の西上に喜んで挙兵した将軍足利義昭山城槙島城(まきしま。京都府宇治市)に攻め、追放しました。ここに室町幕府は滅亡したのです。
「次は浅井だ。今度こそとどめを刺してやる」
 信長は休むまもなく近江に矛先を転じました。
「浅井朝倉を倒せば、天下はようやく我が手中に収まる」

「長政を助けに行かなければ」
 出陣しようとした私に、朝倉景鏡、魚住景固らが反対します。
「殿、無謀ですぞ。今の信長には勝てませぬっ」
信玄将軍延暦寺もなくなった今、浅井を助けに行くのは死にに行くようなものですっ」
 私は言いました。
「それでも私は、長政を助けに行かなければならないのじゃ」
「なぜですか!」
「長政は以前、朝倉の窮地を救ってくれた。――だから助けるのじゃ」
「そこが殿の甘いところですよ! 根本的に信長と違うところですよ! 情とか義理は忘れてください! 忘れなければ朝倉は滅びますっ!」
「うるさい! どのみち長政を倒した後は、ヤツは越前に攻めてくるのじゃ! 長政を助けなければ、我らには明日はないのじゃ! 天下は取れないんじゃ! 信長がなんじゃ! 私は私のやり方でヤツに勝ってみせる! ヤツに勝つには、ヤツと同じことをやっていては勝てないのじゃ! 人間というものは、天魔よりも強いということを見せつけてくれよう! 行きたくないヤツは来なくてもよい! とっとと帰れっ!」
 景鏡や魚住らは本当に帰ってしまいました。私は兵をかき集め、二万の軍勢で出陣しました。それが今の私が動かすことができる精一杯の軍勢だったのです。

 八月、浅井の重臣・阿閉貞征(あつじ・あへさだゆき)守る山本山城(湖北町)を攻略した信長は、六万(三万とも)の大軍で小谷城を取り囲みました。
 小谷城内にはもはや二、三千の小勢しかおりません。

小谷城付近対陣図

 一方、越前敦賀で待機していた私は、この報告を聞いて近江に入ります。
「早く長政に顔を見せて安心させてやろう」
 が、信長は逆のことを考えています。
「朝倉と浅井を合体させてはやっかいだ」
 我が進軍を邪魔するように山田山
(長浜市)に陣を張ったのです。
 そのため私は小谷城に向かうことはできません。小谷城の背後、大嶽城
(おおずくじょう。大築城。長浜市)や丁野城(ようのじょう。長浜市)にも私の兵がいますが、そちらに移ることもかないません。

 とりあえず、地蔵山(田上山。長浜市)に本陣をおきます。山田山と比べて標高が低いため、明らかに不利な地形です。しかもこちらは兵が少ない上、分断されているのです。
 私はあせりました。
「奇襲を仕掛けてみるか。大嶽城の兵と合流すれば、小谷城へ入ることができる」
 考えているうちに、向こうのほうから奇襲を仕掛けてきました。なんと信長本隊が大嶽城を急襲したのです。大嶽城には五百ほどの兵しかおらず、不意を突かれて混乱し、たちまち陥落しました。
「大嶽が落ちたぞ!」
 雪崩を打ったように丁野城の兵も敗走します。

「大嶽・丁野、敗退!」
 地蔵山本陣は動揺しました。
 と、言うことは、織田軍が攻撃するところは我が本軍しかなくなったということです。
「撤退せよ!」
 私はみなに命じました。
 いえ、命令する前からすでに、みなみな逃げていました。
「織田軍が攻めてくるぞ!」
「大軍に取り囲まれるぞっ!」
「かなわん、逃げろや! 逃げろ!」
 私も必死で逃げました。敗走していると、笑えてきました。
「まるで金ヶ崎の時の逆じゃないか!」
 あのとき、私は信長の逃げ足の速さに感心しましたが、この今の自分の逃げ足はどうでしょう!
「見よ、信長! 私は逃げ足でも貴様には負けないぞ! 追いつけるものなら追いついて見やがれ!」

 信長は朝倉軍の撤退を知って躍起になりました。
「小谷城など、放っておけ! みなで朝倉を追撃をせよ! 一乗谷まで追いまくれ! 首を取るな! そんなもん取っているひまがあったら、次の敵を切り倒して進めー!」

 ひとまず敵の追撃をかわした朝倉軍は、近江越前の国境・柳ヶ瀬(梁ヶ瀬。やながせ。長浜市)にてとどまります。気が変わった私が軍議を切り出したのです。
 ああ、これが実は失敗でした。あのまま全軍で越前まで逃げ切るべきでした。しかし、失敗というものは、失敗後に初めて分かるものです。失敗中は気づかないものです。
 私はみなに言いました。
「このまま戦らしい戦をしないまま一乗谷に帰るにはあまりに口惜しい。この地で坂を背にして戦えば、信長に一撃を加えられると思うが、どうじゃ?」

 重臣たちはああだこうだと議論を戦わしましたが、結局、みな重臣・山崎吉家(やまざきよしいえ)の反対意見に賛成しました。
「殿のお気持ちは分かりますが、おびえ切っているこの兵たちでいったい何ができましょう。とにかく殿は一刻も早く一乗谷へ戻り、再起を図ってください。敵に一撃を加えるのは、どうか私にお任せください」
 私は驚きました。
「おまえは一人、ここにとどまるというのか?」
「殿を守るためなら、喜んで死にまする」
「だめじゃ! 死ぬときはみな一緒じゃ! 私もここで戦って死ぬ!」
「殿は天下を取られるお方じゃ! 阿君丸と約束されたではござらぬか! 死んでは天下を取れませぬ! お逃げください!」
「しかし……」
「敵軍、襲来ーっ!」
「さあ、早く!」
 私は錯乱しました。時間がありません。小少将の顔が浮かびました。愛王丸の顔もよぎりました。小宰相や阿君丸の顔も通り過ぎていきました。
 私は気がつきました。
「そうだ。私には守らなければならない人たちがいる……。死んでいった人々のために、かなえなければならない夢がある……」
「敵が来ました! 早くーっ!」
 私は馬に飛び乗りました。駆け出しました。追いすがる敵を振り切って、がむしゃらに逃走しました。
 山崎は死にました。朝倉景行
(かげゆき)・斎藤竜興(さいとうたつおき。「暴力味」参照)・河合安芸守(かわいあきのかみ)ら多くの勇猛な武将たちが疋田城に至る刀根坂(とねざか。刀祢坂。福井県敦賀市)にて死んでいきました。
 それでも私は逃げました。逃げることが彼らの忠義に報いる唯一の供養だと、私は信じました。

 私は一乗谷にたどり着きました。
 出迎えはありませんでした。妻子は館内でおびえていました。
「私が来たからにはもう大丈夫だ」
 私は妻子を抱き寄せました。
 出陣を拒んでいた景鏡がやって来ました。彼はなにやらうれしそうに私の顔を見ました。
「言わんこっちゃなかったでしょう」
 私は蹴飛ばしてやろうかと思いました。
「勝負は時の運じゃ。また今度勝てばいい」
 景鏡は街道のほうを見て言いました。
「兵たちはだれも帰ってきませんねー。もうじき敵はうじゃうじゃやって来るでしょうが」
 私は怒りました。
「他人事のように言うな! 何か良い手でも浮かばぬのか! 何かあるはずじゃ。信長をギャフンと言わせる方法がっ」
 景鏡はあきれました。
「アレだけ信長にギャフンと言わせられたのに、まだ勝ち目があると考えているんですか」
「あるんじゃ! 私は天下を取るんじゃーっ!」
 景鏡は侮蔑
(ぶべつ)の笑みを浮かべましたが、急に真顔になって言いました。
「それなら私の領地、大野
(おおの。福井県大野市)へ逃げましょう。平泉寺(へいせんじ。福井県勝山市)がかくまってくれるでしょう。ここはもうじき敵が来ます。危険です」
「そうじゃな」

 私はわずかな家来と家族を引き連れて平泉寺へ向かいました。
 しかし、信長の報復を恐れた平泉寺は、私をかくまうことを拒否しました。
 そのため景鏡は、私たちを東雲寺、ついで賢松寺
(ともに大野市)に入れました。
 私はいぶかしがりました。
「なぜ景鏡は私を自分の居城に入れないのじゃ」

 まもなく景鏡が、その答えを持ってやって来ました。手勢を引き連れて賢松寺を取り囲んだのです。
「殿にはもう勝ち目がない! 覚悟して切腹なされよ! おれは殿の首を信長に差し出して、自分だけは助かるんのじゃ!」
 私は怒り狂りました。
「おのれ貴様、裏切ったのか!」
 やがて寺の外からときの声があがり、寺門付近でドンパチが始まりました。家来の数は知れています。無念ですが、本当に最期です。私は辞世を書き残し、切腹しました。

   七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空

 死ねば、すべては無になります。介錯(かいしゃく)がいないまま切腹したため、しばらくのた打ち回っていましたが、気づいた家来が首を打ち落としてくれました。八月二十日のことです。享年は四十一歳。同じ享年の方、あなたにも私と同じような運命が――。
 あ、そんな方は読めないか。ハッハッハ!

*          *          *

 義景の死後、光徳院(義景の母)・小少将(義景の妻)・愛王丸(義景の息子)は殺され、娘二人は追放された(「泥沼味」参照)
 義景の死後八日後、浅井長政も小谷城にて自害して果てた。

 翌天正二年(1574)正月、信長は義景・長政・久政(長政の父)のドクロを箔濃(はくだみ)にして祝ったという。

 天正十年(1582)、信長本能寺の変で殺されるが、加害者明智光秀が義景の元家来だったことは、皮肉としかいいようがない(「ロス味」参照)

[2003年1月末日執筆]
ゆかりの地の地図
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