1.浜口雄幸の登場 | ||||||||||||||
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浜口雄幸は土佐出身。現在の高知県生まれである。明治三年(1870)四月一日に水口家で生まれたが、ほどなくして浜口家の養子になった。
成長して帝国大学に入学、卒業して大蔵省(現財務省)に入り、いくつかの地方勤務を経て中央に戻り、専売局長官・逓信次官(ていしんじかん。後の郵政次官)・大蔵次官などを務めた後、高知から衆院議員に立候補して当選、蔵相・内相(現国家公安委員長)を務め、立憲民政党結成とともにその総裁に推された。
浜口雄幸 PROFILE | |
【生没年】 | 1870-1931 |
【別 名】 | 朴念仁・ライオン宰相・空谷 |
【出 身】 | 土佐国(高知県) |
【職 業】 | 官僚政治家 |
【役 職】 | 山形県収税長→大蔵書記官→官房課長 →松山熊本税務管理局長→専売局書記官 →専売局部長→専売局長官→逓信次官 →大蔵次官→大蔵参政官→蔵相→内相 →首相(1929-1931)・衆院議員・立憲民政党総裁 |
【政 策】 | 緊縮財政・軍備縮小・親善外交 |
【 父 】 | 水口胤平 |
【 母 】 | 水口繁子 |
【養 父】 | 浜口義立 |
【 師 】 | 加藤高明 |
【側 近】 | 幣原喜重郎・井上準之助ら |
【盟 友】 | 若槻礼次郎・下岡忠治・伊沢多喜男ら |
【著 作】 | 浜口雄幸遺稿随感録 |
【墓 地】 | 青山墓地(東京都港区) |
立憲民政党は昭和二年(1927)成立。加藤高明が結成した憲政会と、床次竹次郎(とこなみたけじろう)が結成した政友本党とがくっついた政党で、当時の野党第一党であった。
一方、与党は、明治三十三年(1900)に伊藤博文が結成した立憲政友会で、当時の総裁は軍人出身の田中義一。
田中は山口県出身で、長州陸軍閥のボス・山県有朋の子分である。
日清・日露戦争に出征するなど現場で鳴らしたタカ派の軍人だが、立憲政友会総裁の原敬(「 暗殺味」参照)とも仲が良かった。
原の横死後、田中は総裁を継いだ高橋是清から総裁を譲られ、関東大震災や金融恐慌のため倒壊した第一次若槻礼次郎内閣の後を受けて昭和二年(1927)に組閣した。
田中はまず、モラトリアムを発して金融恐慌を切り抜けた。
また、治安維持法に最高刑死刑を追加し、全国に特別高等警察を設置、三・一五事件や四・一六事件で共産党を徹底的に弾圧した。
一方、中国の内政にも積極的に介入し、三度山東出兵を行った。
田中の政策は常に強硬だった。
「こんなことばかりしていて大丈夫か?」
政界に不安の色が取り巻き始めた。
昭和三年(1928)六月四日、関東軍は暴走し、張作霖爆殺事件を引き起こした。このことが昭和天皇の逆鱗(げきりん)に触れ、田中はキングメーカー西園寺公望にも見放されてしまった。退陣を余儀なくされたのである。
こうして浜口雄幸に御鉢(おはち)が回ってきた。