3.金解禁

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七十年前の小泉純一郎
1.浜口雄幸の登場
2.浜口内閣の発足
3.金解禁
4.ロンドン海軍軍縮条約
5.浜口雄幸の遭難と浜口内閣の終焉

 昭和五年(1930)年一月、浜口内閣は、政策の目玉である金解禁を断行した。
 金解禁とは、金
(貨幣や地金)の輸出を解除することである。日本は明治三十年(1897)に金本位制を確立させ、金の輸出が行われていたが、第一次世界大戦中に欧米諸国が相次いで金の輸出を禁止したため、日本でも大正六年(1917)になって禁止していた。

 ところが、欧米諸国は大戦後相次いで金本位制に復帰、日本もこれらに続こうとしたが、関東大震災金融恐慌といった混乱のためかなわなかった。金解禁の主な目的は為替相場の安定と、輸出の拡大による国内産業の活性化である。
 ただ、問題だったのは、新平価ではなく、旧平価で金解禁を行ったことであった。
 旧平価は日本が不況に陥る前の平価
(外貨と比べての価値)であり、それでの金解禁は事実上の円の切り上げ(円高)になってしまう。御存知とは思うが、円高では輸出には不利である。これではせっかくの輸出活性策も相殺されてしまうことになる。
 そのため、東洋経済新報社の高橋亀吉
(たかはしかめきち)や石橋湛山(いしばしたんざん)らは新平価での解禁を主張した。
 それでも井上準之助蔵相は日本のメンツを重視し、旧平価での解禁を押し切った。
 当時、アメリカは空前の好景気を謳歌
(おうか)していたこともあって、円が多少上がったところで、そんなに輸出に影響は出ないだろうと考えたのであろう。

 金解禁当日、市場はこれを歓迎し、株価は上昇した。
 浜口内閣はどうだといわんばかりに衆議院を解散し、総選挙を行った。
 結果は浜口雄幸率いる与党・立憲民政党の圧勝であった。
「幸先よし。これはうまくいく」
 浜口井上も満足げであった。当初は彼らの計算通りに行くかと思われた。
 だが、頼りにしていたアメリカは、その時すでに「恐慌」という名の底なし沼に足を踏み入れていた。

 前年の十月二十四日、ニューヨークのウォール街で株価が大暴落し、株式取引所が大混乱に陥っていた。いわゆる「暗黒の木曜日」である。これが全世界に波及して世界恐慌になるのだが、それは後世になって初めてわかることである。
 日本でも生糸価格が暴落したが
(「お蚕味」参照)、そのうちに上がるだろうと高をくくっていた。そのために浜口内閣は緊縮財政を押し進め、国内産業振興に努め、金解禁に踏み切ったのである。

 アメリカにナショナルシティ銀行なる大金融機関があった。
 連日続く株価の暴落に、幹部たちはほとほと困り果てていた。
「だめだ。これはただ事ではない。恐慌が起こるやもしれない」
 そこへ海の向こうからニュースが飛び込んできた。
日本金解禁が行われたそうだ」
 これには幹部たちの顔が明るくなった。相場には「有事の金」という格言がある。恐慌が起これば、紙幣は紙クズ同然になる。そうなる前に紙クズは「ナマ金」と交換しておいたほうがいい。
 ナショナルシティ銀行は動いた。日本から金貨を輸入しまくり始めた。他の銀行もこれに追随した。そのため、金解禁後わずか二ヶ月で一億五千万円
(今のお金に換算すると、約九兆六千億円)もの金貨が外国に流出したという。

 浜口もちょっと心配になってきた。
「こんなに金が流出してしまって、大丈夫か?」
 井上は強気であった。
「大丈夫です。金の流出は輸出が増えていく前兆です」
 ぜんぜん増えていかなかった。アメリカの不況はヨーロッパにも波及し、各国とも輸入を増やす力がなくなっていた。外国が輸入してくれなければ、日本の輸出が増えるはずがない。日本でも株価や物価が下落し、中小企業が次々と倒産、完全失業率は前年の四・五パーセントから五・三パーセントに上昇し
(さらに翌年は六・七パーセント)、不況はますます深刻化していった。それでも日本は、アメリカから借金をしてまで金の輸出を続けた。

 九月になり、イギリスが金本位制を離脱した。ヨーロッパの金融恐慌が深刻化し、資金回収に応じられなくなったため、金の輸出を再禁止したのである。
「へん。まだ『ジパング』があるからいいさ」
 イギリスから金を輸入しまくっていた連中が、日本に鞍替えした。
 日本はさらにアメリカから借金をしようとした。だが、アメリカの経済も苦しくなり、貸してくれなくなってしまった。
 まもなく、日本国内の金は尽きてきた。金の流出を防ぐ手は、もはや輸出を再禁止するしかなかった。

「このままでは日本も再禁止するしかないだろう」
 再禁止を実行すれば、円の暴落は目に見えている。
 ナショナルシティ銀行は、今度は「ドル買い」を開始した。これに三井三菱住友安田といった日本財閥も追随した。金融恐慌以後、中小銀行がバタバタと破綻
(はたん)し、そのツケが回ってきていた財閥も必死であった。彼らは今のうちにドルを買っておくことで資産を確保しようとしたのである。
 こうして、イギリスの金再禁止後わずか一週間で二億円
(約十三兆円)ものドルが買われたという。

 昭和六年(1931)十二月十三日、犬養毅内閣発足とともに金輸出再禁止が決定された。時の蔵相は井上ではなく、高橋是清である。
 無念の井上は、この翌年に血盟団員・小沼正
(おぬましょう)によって射殺されることになる(血盟団事件)

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