4.ロンドン海軍軍縮条約

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七十年前の小泉純一郎
1.浜口雄幸の登場
2.浜口内閣の発足
3.金解禁
4.ロンドン海軍軍縮条約
5.浜口雄幸の遭難と浜口内閣の終焉

 金解禁が行われた昭和五年(1930)一月、セント・ジェームス宮殿(イギリス・ロンドン)において、重要な会議が開かれていた。イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアという当時の五大軍事大国の代表が集ったロンドン海軍軍縮会議である。
 各国の主席全権は、イギリスはマクドナルド首相、アメリカはスチムソン国務長官、日本若槻礼次郎元首相、フランスはタルジュ首相、イタリアはグランジ外相。

 当時、イギリスやアメリカは、ついこの間まで極東の一弱小国に過ぎなかった日本が、短期間のうちにやロシアを倒すまでに成長し、世界第三の軍事大国に上り詰めていたことに脅威を感じていた。
 彼らにとってのもう一つの脅威のドイツは、第一次世界大戦でたたきのめすことができたが、日本は味方についてしまったので、ぶちのめすことはかなわなかった。
 それどころか日本は、大戦中も中国にちょっかいをかけ続け、着々とその勢力を拡大していた。
日本にはサムライがいる――」
 その頃、欧米では、『武士道』なる本が英語ほか五か国語に訳されて出回っていた。
 新渡戸稲造がサムライ・スピリッツを紹介した本である。
日本は眠れる獅子と呼ばれた清や、ナポレオンですらかなわなかったロシアにすら、サムライ・スピリッツでもって勝ってしまった国だ。このまま日本を野放しにしておけば、近いうちに東アジア全体が日本の植民地になってしまうだろう。そして、その後は――」
 イギリス・アメリカにとって非常に都合の悪い事態が待ち受けていることは容易に推測がつく。そうさせないためには、脅してでも、たぶらかしてでも、日本に軍縮を迫らなければならなかった。

 ロンドン以前にも、何度か軍縮会議は開かれ、軍縮条約が調印されていた。
 大正十〜十一年(1921〜1922)にはワシントン会議が開かれ、ワシントン海軍軍縮条約にて、イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリア間の主力艦
(軍艦と航空母艦のこと)保有率を5:5:3:1.67:1.67と定めた。
 これによって日本は、アメリカやイギリスが保有している主力艦の六割までしか保有できなくなってしまったのである。
 そこで、日本海軍は考えた。
「それなら、ちっちゃいのをいっぱい造ればいいんだ」
 日本海軍は大きな主力艦を造るはずだったものを、小さい補助艦
(巡洋艦・駆逐艦・潜水艦)に造り直した。無理して小さな艦体に大きな砲台を取り付けたりしたため事故が多発したが、それでも細かいのをたくさん造ることできた。
「どんなもんだ」
 しかし、イギリスやアメリカが、これを黙ってみているはずがなかった。
「今度は補助艦についても制限しよう」
 と、いうことになり、アメリカの提案で昭和二年(1927)にジュネーブ会議が開かれたが、意見が合わずに失敗に終わった。
 そこで今度はイギリスの提案で、ロンドン海軍軍縮会議が開かれたのである。

「今度こそ、日本を軍縮させてやるっ」
 会議に臨んでイギリスやアメリカは意気込んでいた。
 でも、日本海軍にも意地があった。
「イギリスとアメリカの謀略に乗せられて軍縮なんかさせられてたまるか!」
 もともとワシントンの「主力艦対英米六割」に不満だった日本海軍は、補助艦については「対英米七割」を主張、浜口雄幸もこれを了承し、この最低限の原則案を会議に持ち込んだのである。
 ところが、イギリスやアメリカなどはこれを認めてくれなかった。
「だめだね。主力艦が六割だから、補助艦も六割でいいじゃないか」
 日本は細かい条件をくっつけたり引っ込めたりしてがんばったが、どうあがいても七割には届かず、アメリカが譲りに譲った妥協案「補助艦全体の保有率対米六割九分七厘五毛
(ただし大型巡洋艦は六割)」というものを、いったん持ち帰って出直してくることにした。

「――と、いうわけなのだ」
 若槻礼次郎主席全権から会議の報告を受けた浜口が言った。
「いいんじゃないか。国内でも緊縮財政を推し進めているところだ。これを機に海軍も軍縮したほうがいい」
 幣原喜重郎外相も同調した。
「とにかく、イギリスやアメリカを怒らせるのはまずいでしょう」
 海軍部内でも、アメリカの妥協案は紹介された。岡田啓介軍事参議官はこれに賛成した。
「やむをえないだろう。われわれの目標の『七割』と、わずか『二厘五毛』違うだけじゃないか。たかが『二厘五毛』に目くじら立てて反発することもあるまい」
 しかし、加藤寛治
(かとうひろはる)軍令部長や末次信正(すえつぐのぶまさ)軍令部次長は猛烈に反発した。
「たかが『二厘五毛』とは何事だ! この『二厘五毛』の戦力差が、勝敗の命運を決することにもなりかねんのだ!」
 海軍内でも意見が分かれたが、浜口内閣岡田を通して反対派を説得、なんとか四月二十二日に条約に調印することができた。

 ところがこれ以前、どうにもおもしくない加藤は、反対の旨を昭和天皇に直言していたのである。
 このことを知った野党立憲政友会犬養毅鳩山一郎らが、翌二十三日の議会で激しく浜口内閣にかみついた。
「ああ、なんということだ! 軍令部長が条約調印に反対していたのに、内閣はこれを無視して条約を調印した! 軍令部は統帥権をお持ちである天皇陛下の補佐機関にして、帝国海軍の最高機関である! 内閣は、陛下の御手足に対して反乱を起こしているのも同然である! そもそも軍事条約の調印は統帥権に含まれ、内閣の職務ではない! 内閣のしていることは、『統帥権の干犯』である!」
 いわゆる統帥権干犯問題である。犬養らの発言の反響は大きく、条約反対派・野党・右翼がこぞって内閣に抗議したが、内閣は
元老西園寺公望以下の圧力でこれを乗り切り、なんとか十月二日に条約批准(ひじゅん)にこぎつけた。
 しかし、このことがまもなく、浜口の政治生命を終わらせる事件に発展することになった。


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