5.浜口雄幸の遭難と浜口内閣の終焉

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七十年前の小泉純一郎
1.浜口雄幸の登場
2.浜口内閣の発足
3.金解禁
4.ロンドン海軍軍縮条約
5.浜口雄幸の遭難と浜口内閣の終焉

 昭和五年(1930)十一月十四日。
 この日の朝、浜口雄幸は「燕
(つばめ)号」に乗るため東京駅にやって来た。
 「燕号」はこの年に開通したばかりの東京〜神戸間を結ぶSL特急である。この日、岡山県で陸軍の軍事演習が行われることになっていたため、浜口はその視察に向かったのであった。
 浜口がプラットホームからまさに列車に乗り込もうとしたとき、一発の銃声がとどろいた。
 パン!
「うう……」
 同時に浜口がうめき、下腹部を抑えてうずくまった。
「ああっ!」
「首相が!」
 秘書官・中島弥団治
(なかじまやだんじ)や書記官長・鈴木富士弥(すずきふじや)らがびっくりして浜口を助け起こしたが、彼の顔はすでに真っ青で、言葉を発することもできなくなっていた。
 浜口はすぐに東大病院に運ばれ、手術を受けた。
 銃弾が骨盤まで達する重傷だったが、なんとか一命は取りとめた。
「男子の本懐だ」
 手術後、浜口が漏らした言葉が流行語になった。当時はまだ流行語大賞などなかったが、彼もまたコイズミのように流行語を残したのである。
 一方、犯人のほうはすぐにつかまった。二発目を撃とうとしていたところを警官に取り押さえられたのである。
 犯人は佐郷屋留雄
(さごうやとめお)という青年であった。岩田愛之助(いわたあいのすけ)を頭とする愛国社(あいこくしゃ)という右翼団体に所属していたが、背後関係は秘密にしていた。
浜口は社会を不安におとしめ、陛下の統帥権を犯した。だからやった。何が悪い」
 佐郷屋はそう言った。取調べはすぐすんだ。当時の警察は左翼には厳しかったが、右翼には甘かったという。
 佐郷屋は三年後に死刑を宣告されるが、恩赦で出獄、戦後は井上日昭
(いのうえにっしょう)らと護国団を結成するなどの活動をしている。

 浜口の遭難により、内閣は外相幣原喜重郎を臨時代理の首相とした。
幣原はイギリスやアメリカの言いなりの『国賊』じゃないか!」
 野党や右翼はこれに反発した。議会は混乱した。
「国賊!」
「バカたれ!」
「ロンドン行って条約を調印しなおしてこい!」
 ヤジや怒号で議題が進まず、すぐに休憩となる。退室しようとする幣原らに、野党の怖いお兄さんたちが退路をふさいで騒ぎ立てた。
「逃げるんかー!卑怯者ー!」
「くたばれー!幣原ー!」
「貴様も撃たれろーっ!」
 議場は押し合いへし合い、ヤジや怒号だけでは収まらず、ゲンコツやケリまで乱れ飛ぶ乱闘修羅場となった。まるで某隣国
(台湾)の議会のようだ。

「私がいない間に、そのような事態になっているのか……」
 報告を受けた浜口は、三月十日に無理を押して議会へ出席した。まだ骨の中に銃弾を残していたというが、なんという壮絶な登院であろうか。おそらく彼は、議会中に居眠りなんかはしたことはあるまい。

 議会閉会後の四月十三日、浜口若槻礼次郎に後を託して内閣を総辞職し、四か月後の八月二十六日に例の傷がもとで亡くなった。
 彼の辞世の句が、その邸宅跡にある石碑に刻まれている。

   なすことのいまだ終わらず春を待つ

 こうして、浜口による構造改革は挫折(ざせつ)した。しかし彼は、自分のやった改革が間違っていたとは思っていなかったであろう。
 浜口を失った日本は、やがて無謀な戦争の道へとひた走っていくことになるのである
(「制裁味」「攻撃味」等参照)

[2002年1月末日執筆]
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参考文献はコチラ

●浜口雄幸内閣略年表
西暦 年号 できごと
1929 昭和四 7/田中義一内閣総辞職。浜口雄幸内閣発足。十大政綱を発表。当初より5%節減した緊縮実行予算を発表。8/株価暴落。公私経済緊縮委員会を設置。内務省、全国失業調査を実施(完全失業者268,590人)。10/犬養毅、立憲政友会総裁に就任。官吏の一割減俸を発表(反発により撤回)。ニューヨークで暗黒の木曜日(世界恐慌始まる)、生糸価格暴落。11/大山郁夫、新労農党を結成。朝鮮で光州学生事件。反帝国主義民族独立支持同盟日本支部結成。大蔵省、金解禁を発表。内閣に産業合理化審議会を設置。小橋一太文相、越後鉄道疑獄により辞任。この年、島崎藤村『夜明け前』・小林多喜二『蟹工船』・徳永直『太陽のない街』など刊行。
1930 昭和五 1/旧平価で金解禁実施(事実上の円切り上げ)。ロンドン海軍軍縮会議開催(日本全権・若槻礼次郎)。2/第十七回総選挙、立憲民政党圧勝。4/鐘淵紡績大阪・京都工場でスト突入(鐘淵紡績争議)。日・英・米、ロンドン海軍軍縮条約を調印。犬養毅・鳩山一郎ら、軍縮条約調印を統帥権干犯だと批判。5/日華関税協定調印。中国で間島事件。生糸価格暴落(昭和恐慌〜1932)6/全国労働組合同盟・日本労働組合全国評議会結成。軍令部長・加藤寛治、軍縮条約調印に抗議辞任。株式等暴落。7/麻生久ら、全国大衆党結成。9/ドル買い問題化。東洋モスリン亀井戸工場が人員整理に反対してスト突入(東洋モスリン争議)。橋本欣五郎ら、桜会を結成。10/米価暴落。東京〜神戸間を結ぶ特急「燕号」登場。財部彪海相辞任。台湾で霧社事件。生糸価格暴落。11/東京駅で浜口雄幸暗殺未遂事件。幣原喜重郎、臨代。この年、直木三十五『南国太平記』など刊行。
1931 昭和六 2/幣原喜重郎、失言問題。3/橋本欣五郎・大川周明ら反乱未遂(三月事件)4/重要産業統制法・工業組合法を発表。浜口雄幸、傷悪化のため総辞職。8/浜口雄幸没。

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