1.狡猾!徳川家康!!

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愛知長久手立てこもり事件
1.狡猾!徳川家康!!
2.失望!片桐且元!!
3.結集!負け組共!!
4.頑強!真田幸村!!
5.錯乱!お茶々様!!

 慶長十九年(1614)四月、前天下人の継嗣・豊臣秀頼は方広寺(ほうこうじ。京都市東山区)を再建した。
 すべては豊臣家滅亡を目指す現天下人たる大御所徳川家康のたくらみであった。
「方広寺を再建してあげなさい。大仏も造ってはどうですかな?亡き尊父
(秀吉)も喜ばれましょう」
 方広寺は天正十四年(1586)に豊臣秀吉大老小早川隆景に命じて造らせた大寺である。
 伽藍
(がらん)は豪華で高さ六丈(約十八メートル)の大仏も鎮座していたが、慶長元年(1596)の大地震で全壊していた。
 秀頼は素直であった。
「そうですね。再建すれば亡き父も喜ぶでしょうね」
 いや。本当に喜ぶのは、ほかならぬ家康であった。
 家康はここぞとばかりに勧めた。
「長い戦乱で全国各地の有名な社寺が荒廃しました。もはや天下は平和になりました。もともと貴殿の尊父は無一文から全国を平定し、天下一の大富豪にまで昇り詰めました。このことはひとえに全国の神々仏々の御加護があってのものと思われます。ここらへんでこれらに御礼をしてあげてはどうでしょうか? いや、しないと罰が当たりますよ〜」
「うん、そりゃそうだ」

徳川家康 PROFILE
【生没年】 1542-1616
【別 名】 竹千代→松平元信・次郎三郎→松平元康
【出 身】 三河国岡崎城(愛知県岡崎市)
【本 拠】 三河岡崎城→遠江浜松城(静岡県浜松市)
→武蔵江戸城(東京都千代田区)
【職 業】 武将・政治家
【役 職】 三河守→権中納言→権大納言→内大臣
→征夷大将軍(1603-1605)・右大臣
→太政大臣(1616)
【位 階】 従五位下→正三位→従二位→正二位→従一位
【 父 】 松平広忠(三河岡崎城主)
【 母 】 水野お大(水野忠政の娘)
【 師 】 太原崇孚(雪斎)
【主 君】 今川義元・豊臣秀吉
【 妻 】 築山殿(関口親永の娘)・朝日姫(豊臣秀吉異父妹)
・永見お万・戸塚(西郷)お愛・秋山お都摩
・西郡局(鵜殿氏)・花井お八(お茶阿)
・太田お八(お勝・お梶)・志水お亀・正木お万
・市川お竹・三井おむす・飯田すわ(阿茶局)
・長谷川お奈津・黒田お六・宮崎お仙
・青木お梅・ちよぼ・お松・松平重吉の娘
・三条某の娘
【 子 】 松平信康・松平(結城)秀康・徳川秀忠・松平忠吉
・武田信吉・松平忠輝・徳川義直・徳川頼宣
・徳川頼房・松千代・仙千代
・松平民部(松平秀康養子)
・小笠原権之丞(小笠原広朝養子)
・亀姫(奥平信昌妻)・督姫(池田輝政妻)
・松姫・市姫・振姫・女児某
【盟 友】 織田信長・北条氏政ら
【部 下】 本多忠勝・井伊直政・酒井忠次・榊原康政
・本多正信・本多正純・石川数正・本多重次
・高力清長・天野康景・鳥居元忠・天海
・以心崇伝・林羅山・三浦按針・大久保長安ら
【仇 敵】 武田信玄・豊臣秀吉・石田三成・淀殿ら
【墓 地】 増上寺(東京都港区)
【霊 地】 日光東照宮(栃木県日光市)
・久能山東照宮(静岡県静岡市)ほか各地の東照宮

 秀頼は勧められるがまま、全国の有名社寺を再建しまくった。
 法隆寺薬師寺延暦寺四天王寺南禅寺・法華寺
(ほっけじ。奈良県奈良市)・出雲大社(いずもたいしゃ。島根県出雲市)・醍醐寺(だいごじ。京都市伏見区。「2002年3月号 花見味」参照)・石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう。京都府八幡市)・北野天満宮(きたのてんまんぐう。京都市上京区)・等持院(とうじいん。京都市北区)・随心院(ずいしんいん。京都市山科区)・熱田神宮(あつたじんぐう。名古屋市熱田区)・大鳥大社(おおとりたいしゃ。大阪府堺市)・枚岡神社(ひらおかじんじゃ。大阪府東大阪市)・金峰山(きんぷせん。奈良県吉野町。「2004年8月号 熊野味」参照)・吉野水分神社(よしのみくまりじんじゃ。同町)・石鎚山(いしづちやま。愛媛県)・叡福寺(えいふくじ。大阪府太子町)・都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ。滋賀県長浜市)・葛井寺(ふじいでら。大阪府藤井寺市)・勝尾寺(かつおじ。大阪府箕面市)・本山寺(ほんざんじ。大阪府高槻市)・松尾寺(まつおじ。大阪府和泉市)などなど、彼が再建・造営・増改築に携わった寺社は枚挙にいとまない。
(しめしめ)
 家康はほくそ笑んだ。
(そうじゃそうじゃ。もっともっとカネを使え!そして、ド貧乏になるんじゃー!)
 そうである。家康は豊臣家の財力をそぐために寺社造営を勧めたのであった。

秀頼はバカですな」
 徳川官界のボス・本多正信
(ほんだまさのぶ)は笑った。
 その子・正純
(まさずみ)とともに策士として知られるあの男である(「2004年4月号 裏金味」参照)
 家康はつめをかみかみ苦い顔をした。
「それがそんなにバカではないから困っておるんじゃよ。どちらかと言えば、我が子・秀忠のほうがバカじゃ」
「プッ!」
 思わず吹き出した正純を、家康がにらみつけた。
 自分で息子を悪く思うのは構わないが、人に思われるのは気に食わないのである。
「だからこそ、わしの目の黒いうちに豊臣家をつぶしておかねばならんのじゃ」

 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦以降、家康は豊臣家に対して数々のイジワルをしてきた。
 西軍の主将・石田三成とは無関係といっておきながら豊臣家を大幅な減封したこと――。
 さも当たり前のように征夷大将軍に就任したこと――。
 当然の成り行きのように秀忠将軍を委譲したこと――。
 二条城
(にじょうじょう。京都市中京区)秀頼を無理やり呼びつけて会見したこと――。
 などなどである。
「今度は怒るぞ。今度は兵を挙げるぞっ」
 家康は仕掛けるたびに期待したが、そのたびに豊臣家は耐え忍んできた。
「おのれタヌキ親父!」
 何かにつけて暴走しがちな淀殿
(よどどの。淀君。茶々。秀頼生母)を、
「どうか、御辛抱のほどを!豊臣家をつぶしては、亡き太閤殿下
(秀吉)に面目が立ちませぬ!」
 加藤清正、浅野幸長
(あさのよしなが)、片桐且元(かたぎりかつもと)といった秀吉子飼いの武将たちが制止してきたからである。
 が、すでに清正も幸長もこの世の人ではなくなっていた。
 清正は慶長十六年(1611)に五十歳で、幸長はその二年後に三十八歳で没していたのである。

「今度こそ、豊臣家を怒らせるのじゃ」
 家康は取り巻き達を見回した。
「もはやわしも長くはない。すでに三浦按針に鉛
(なまり。鉄砲玉の材料)を買い付けさせた。ここらでそろそろ決着をつけねばならぬ。者ども、何か妙案はないか?」
 家康の策士は正信・正純父子だけではなかった。
 仏教界の長老・天海
(てんかい)、黒衣の宰相・以心崇伝(いしんすうでん。金地院崇伝)朱子学林家の祖・林羅山などなど、一癖(ひとくせ)も二癖もある連中ばかりであった。
 天海が切り出した。
「豊臣家は方広寺の大仏開眼供養にわしを招いてきた。席順は真言宗よりも天台宗を左
(上位)にしなければ、わしは出席せぬと答えておいた」
 一同、ふっと笑い合った。
 これは難題である。
 天海は叡山最高職探題、つまり天台宗のボスであるが、対する真言宗のボスは秀頼お気に入りの醍醐寺
(だいごじ。京都市伏見区)座主・義演(ぎえん)であった(「2002年3月号 花見味」参照)。しかも真言宗にはもともと醍醐寺派・東寺派・高野山派との三つ巴(どもえ)の序列争いが存在するのである。
 つまり、淀殿や秀頼が困惑することは目に見えていた。

 正純も言った。
「中井
(なかい)の件でも、豊臣家は困るでしょうね」
 中井とは大工頭・中井正清
(まさきよ。藤右衛門)――。
 この度の方広寺の造営工事ほか、江戸城
(東京都千代田区)伏見城(京都市伏見区)・二条城(京都市中京区)駿府(静岡市)・名古屋城(なごやじょう。名古屋市中区)仙洞御所(せんとうごしょ。上京区)法隆寺(奈良県斑鳩町)・久能山東照宮(くのうざんとうしょうぐう。静岡県静岡市)日光東照宮(栃木県日光市)などなど、桃山〜江戸時代初期の重大建設工事を一手に取り仕切る大ゼネコンの棟梁(とうりょう)であった。
 その中井が方広寺大仏殿の棟札
(むねふだ)に異議を唱えたのである。
「どうして施工した私の名前が書かれてないのですか?これでは棟札ではなく、無名札ではありませんか」
 棟札を書いたのは、三井寺長吏・興意法親王
(こういほっしんのう。後陽成天皇の弟)
「何を言う。古来、日本でも唐
(もろこし。中国)でも、大伽藍の棟札には大工の名前を入れないのが慣例ではないか」
「いいえ。違います。これは興福寺
(こうふくじ。奈良市)南大門の棟札の写しですが、この通りちゃんと大工の名前が書いてありますよ。まだまだほかにもこんなにたくさんの例があります。ほらっ、ほらっ」
 多くの証拠まで持参してきた中井に、家康は笑ってしまった。
「お前もイジワルよのう」
「いえ、大御所様ほどでも〜」
 さらに中井は八月一日に決まった棟上式について、
「一日は建物にとって縁起が悪い日なんですよ〜」
 と、ケチまで付けている。

 崇伝が言った。
「しかし、これだけではまだ豊臣家を怒らせるには不十分でしょう。豊臣家を確実に怒らせるには、先に大御所様がお怒りになることです」
「ほう。まだ策があると?」
「はい。これを御覧ください」
 崇伝は巻物を広げて見せた。
「なんじゃ、これは?」
京都所司代・板倉勝重
(いたくらかつしげ)殿より取り寄せた方広寺の鐘銘の写しです」
 方広寺の鐘は、総奉行・片桐且元、監検・板倉勝重のもとで鋳造された、高さ一丈八尺・口径九尺一分五寸もある巨鐘であった。これに元東福寺僧・文英清韓
(ぶんえいせいかん。清韓文英)の銘文が刻印されたのである。
「ふむ。この銘文が何か?」
「こことここの部分を御覧ください」
 家康は崇伝が示した漢文を読んでみた。
「国家安康
(こっかあんこう)――。君臣豊楽(くんしんほうらく)――」
 そして、みるみる愉快になってきた。
「なるほど、こういうのを墓穴というのじゃな。豊臣家、滅びたり! ヒッヒッヒ!」

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