3.結集!負け組共!!

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愛知長久手立てこもり事件
1.狡猾!徳川家康!!
2.失望!片桐且元!!
3.結集!負け組共!!
4.頑強!真田幸村!!
5.錯乱!お茶々様!!

 挙兵を決意した淀殿・豊臣秀頼母子は、豊臣恩顧の諸大名へ書状を送りまくった。
 が、諸大名の返事はみなつれなかった。
「太閤様への御恩は、先年の関ヶ原で返しておりまする。今度は大御所様への御恩を返す番でございまする
(島津家久)
「どうか御謀反はおやめください。江戸には拙者のかわいい妻子がおりまする。戦となれば徳川の先鋒となって参陣いたす所存でございまする。長久か滅亡か、いずれかをお選びください
(福島正則)
「は?なんかおっしゃいました?私は無二の関東の一味ですよっ
(蜂須賀家政)

「ムカーッ!」
 諸大名の返信を読んだ淀殿は激怒した。
「えーい!どいつもこいつも薄情なヤツらばかりだわっ!」
 大野治長は冷笑した。
「諸大名の援助など、最初から当てにしていませんよ」
 先述したように治長は大蔵卿局の子で、関ヶ原の戦後に大坂城の内政を担当、片桐且元逃亡後は豊臣家の家令的地位に成り上がった武将である。
大名など当てにせぬとも、カネで牢人
(ろうにん。浪人)たちを雇えばいいじゃないですか」
 そうであった。豊臣家にはあれほど多くの社寺を再建しておきながら、まだまだ多くの牢人を雇える莫大な財力を有していたのである。豊臣秀吉の蓄財、恐るべし。

 豊臣家は傭兵(ようへい)を募集した。
大坂城に入ってくれる騎兵には、手付金として黄金二枚
(現在の米価換算三百万円弱相当)ずつ与える」
「参戦する百姓は年貢を半減する」
「豊臣家は幕府と違ってキリスト教を容認する」
 これには牢人はおろか、近郷の百姓やキリシタンたちが喜んだ。
「本当か!」
「よし、おらもここらで一旗上げるか!」
「とりあえず、いきなり金持ちになってみるか!」
 彼らは大挙して大坂城へ押し寄せた。
 元土佐領主・長宗我部盛親
(ちょうそかべもりちか。元親の子)、元信濃松本城主・石川三長(いしかわみつなが。康長)、真田昌幸(さなだまさゆき)の子・真田幸村(ゆきむら。信繁)、大谷吉継(おおたによしつぐ。「2003年10月号 変節味」参照)の子・大谷義治(よしはる。吉胤・大学)増田長盛の子・増田盛次(もりつぐ。盛直・宗重)、毛利吉成(もうりよしなり)の子・毛利吉政(よしまさ。勝永)、仙石秀久(せんごくひでひさ)の子・仙石秀範(ひでのり。久倫・宗也)毛利輝元の旧臣・内藤元盛(ないとうもともり。佐野道可)宇喜多秀家(「2009年2月号 変化味」参照)の旧臣・明石全登(あかしてるずみ・たけのり。掃部・守重・ジョアン)、黒田長政(くろだながまさ)の旧臣・後藤基次(ごとうもとつぐ。又兵衛)、加藤嘉明(かとうよしあき)の旧臣・塙直之(ばんなおゆき。団右衛門)などなど、その多くが関ヶ原の戦で西軍に属して失職したか、何らかの理由で失業したいわくつきの負け組ばかり数万人であった(内藤元盛は、万が一豊臣方が勝ったときに備えて輝元が差し向けたものとも伝えられている)
 一方、豊臣譜代の家臣は、凡庸なる首領・大野治長、その弟・大野治房
(はるふさ)、これも弟・大野治胤(はるたね。道犬)茶道の達人・織田長益(おだながます。信長の弟)、ハラキリ王子・木村重成(きむらしげなり。長門守)、直臣随一の豪傑・薄田兼相(すすきだかねすけ。隼人正)、槍(やり)の名人・渡辺糺(わたなべただす)などで、豊臣方の総兵力は九万〜九万六千人(あるいは十万〜十五万)と伝えられている。

 牢人軍団中、最も注目されていたのは、御存知、六文銭の勇者・真田幸村であった。
 治長は幸村に声をかけた。
「真田殿。かつて二度も徳川軍を撃退したその武勇と強運にあやかりたいぞ」
「撃退したとはいっても、父・昌幸
(まさゆき)の代のことですゆえ――」
 昌幸はこれより三年前に病没していた。
『ああ、あと三年長生きできれば、秀頼公に天下を取らせられるものを――』
 幸村は父の言葉を思い出した。
「父は生前、徳川を打ち破る秘策を私に授けてくれました」
「なんじゃ?申してみよ」
「はい。徳川方はすでに豊臣方は籠城だと高をくくっております。まずは出撃して奇襲を敢行することです。敵に長旅の疲れを癒させてはいけません。できることなれば、京都に入らせてはいけません。伏見城を落とし、大和路を固め、近江瀬田
(せた。滋賀県大津市)で敵を要撃するのです。また、秀頼公には天王寺(大阪市天王寺区)付近まで御出馬願います。そうすることで豊臣恩顧の多くの大名が寝返るはずです。籠城というのは最後の手段というのがよろしいかと」
「うんうん」
 秀頼はその気だったが、
「とんでもない!秀頼を城から出すことは許しません!」
 淀殿の大反対でお流れになった。
 治長が諭した。
「真田殿。この大坂城はもともと石山本願寺の跡地に建てられた城だ。あの織田信長公が十年かかってようやく落とした難攻不落の地に、太閤殿下が文字通り金城鉄壁の堅城を築かれたのだ。全国の総大名が寄ってたかって攻めたところで、この古今無双の堅城が十年以内に落とされるはずはない。十年たつ前に、現在七十三歳の家康のほうが死んでしまうだろう」
 幸村は即座に切り替えた。
「では、私に出丸を築くことをお許しください」
「出丸とな?」
「はい。確かにこの城は太閤殿下御築城だけあって、北は大川
(淀川)、東は大和川、西は大坂湾と三方を水に囲まれた無双の堅城です。しかしながら南方だけがやや手薄に感じられます。ここに出丸を築けば、文字通り難攻不落の画竜点睛(がりょうてんせい)となりましょう」
 治長は吹き出した。
「ほう。後藤殿と同じことを申される。後藤殿も出撃するか、南方に出丸を築きたいと申された」
「後藤殿も――」
 治長と幸村は後藤基次を見やった。
 基次は譲った。
「真田殿はいろいろありますゆえ、出丸構築は真田殿にお任せください」
 城内では幸村が徳川方に寝返るのではないかとうわさする者があった。
 幸村の兄・真田信之
(のぶゆき。信幸)や叔父・真田信尹(のぶただ。信伊。加津野信昌)が徳川方に属していたためである。
「私に二心のないことは、戦って証明すればすむことだ」
 そのため、基次は幸村に出丸を譲ったのであった。
 こうして幸村は城の南方に出丸を築き、任せられた五千
(六〜七千とも)の兵とともにここに常駐した。
 この出丸がいわゆる「真田丸」である。

 治長は、城外の穢多崎(えたがさき。木津川口。大阪市大正区)・博労淵・阿波座(同市西区)・河原町・船場(東区)・福島(福島区)などに砦(とりで)を築かせたが、
「不要な砦は無駄に兵力を分散させまする」
 幸村や基次らには不評であった。

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