2.東常縁の文

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日中国交異常化
1.斎藤妙椿の武
2.東常縁の文
斎藤妙椿 PROFILE
【生没年】 1411-1480
【別 名】 持是院・開善院
【出 身】 美濃国or京?
【本 拠】 美濃加納城(岐阜県岐阜市)
【職 業】 武将・僧
【役 職】 美濃守護代後見・幕府奉行衆・権大僧都
【位 階】 従三位
【 父 】 斎藤宗円or斎藤利永
【 妻 】 北畠某
【養 子】 斎藤利国(妙純)
【兄 弟】 斎藤利永
【 甥 】 斎藤利藤ら
【主 君】 土岐成頼・足利義視ら
【 師 】 悟渓宗頓
【友 人】 一条兼良・東常縁・飯尾宗祇ら
【墓 地】 瑞竜寺(岐阜市)

「篠脇城陥落!」
 の報は、配下の浜春利
(はまはるとし)から東常縁に伝えられた。
「落ちたか……」
「無念です」
「今はこちらも戦の最中だ。動こうにも動きようがない」
「いずれ取り返しに行きましょう!」
「ああ」
 常縁は言ったが、何しろ相手は京の武将たちも一目置いている曲者斎藤妙椿である。武力で取り戻す自信はなかった。
 その日は常縁の父・東益之
(ますゆき)の命日でもあった。
「よりによってこんな日に故郷を奪われた報告をしなければならないとは……。父上に申し訳ない」
「ううっ」
「我が先祖は承久の乱で郡上山田荘を与えられて以来、九代二百五十年余りに渡ってあの地を治め続けてきた。それを私の代で途絶えさせてしまうとは、情けなさ過ぎて先祖に顔向けできない」
「うううっ。拙者からもお詫びいたしまする〜」
「私にできることはといえば、歌を詠むことぐらいだ」
 常縁は歌を詠んだ。
 短冊を見せてもらった春利は感涙した。
「うわおっ!何という歌でしょうか……。これはもう、すごすぎますっ」

 春利は常縁の短冊を、京で幕府奉行衆を務める兄・浜康慶(やすよし)への手紙に同封した。
「こっ、これは……」
 康慶も短冊を見て感動、さっそく出席した歌会でみんなに披露したところ、
「東常縁殿の歌だそうな」
「さすがは二条派の歌人。やりますなー」
「望郷の念、古今東西これに勝る歌なし」
 と、公家や武士の間でたちまち評判になった。

 これを耳が早い妙椿が聞きつけた。
 翌応仁三年(1469)二月頃のことである。
「この頃京で評判な歌があります」
「ほう。どんな歌だ?」
 妙椿自身、主君土岐成頼への取り次ぎのため、何度も上洛していた。
 彼も歌好きで、情報収集や人脈作りのためにも方々の歌会に出席していたのである。
「これです。東常縁殿が父の命日に詠んだ歌だそうです」
 知人が歌を写した短冊を持ってきてくれた。
「ほう。常縁殿が」
 妙椿は、昨年彼の居城・篠脇城を落としたことを思い出した。
 短冊にはこうあった。

  あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなおも恋しき  

 妙椿は固まった。
 目を閉じると、篠脇城の周囲の景色がよみがえってきた。
 郡上山田荘は、山も川も谷も野も、何もかもが美しい地であった。
 そこには東氏九代二百五十年の歴史があった。
 永遠に続くと思われたごく普通の人々の営みは、自分が仕掛けた戦によって、一瞬にしてぶっ壊されてしまった……。
「ほう。これを常縁殿が父の命日に詠んだというのか……」
 妙椿の脳裏に、野を馬で駆ける常縁の父親が現れた。
『オレについてこい!』
 虫捕りに誘う常縁の兄弟も現れた。
『裏山の頂上まで競走だ!』
 くたびれて帰ってきた兄弟を出迎える常縁の母親も現れた。
『また泥だらけになって〜』

 いや、それらは常縁の父母や兄弟ではなかった。
 妙椿自身の父母であり、兄弟であった。
 妙椿の父・斎藤宗円
(そうえん)もまた曲者であった。
 外島
(としま。富島)氏や長江(ながえ)氏と美濃守護代の地位を争い、実力でこれを奪い取った下克上であった。
『男には泣いているヒマはない』
 宗円は常日頃そう言っていた。
『泣くようなヒマがあったら少しでものし上がれ!』
 そんな宗円は宝徳二年(1450)に京で外島氏の手の者に暗殺された。
 嫌われ者だった宗円の葬儀で泣く者はいなかった。
『これが悪人の末路というものよ』
『悪いことをたくさんしてきた報いだ。コイツ、いったい何人殺したんだ?』
『ざまあみろだぜ!』
 陰口をたたく者は大勢いた。
 妙椿も泣かなかった。
『男には泣いているヒマはない』
 妙椿は鬼を継ぐことに決めた。
『泣くようなヒマがあったら少しでものし上がれ!』
 その結果、彼は美濃随一の実力者にのし上がった。
 彼の野望はまだ終わっていなかった。
『男には泣いているヒマはない!』
 彼は涙を忘れた。

 そんな妙椿が涙を流していた。
 常縁の歌の前に、ドバドバ爆涙していた。
「何だこれはっ!」
 ぬぐった涙を目にしても、妙椿は認めなかった。
「オレは泣くことをやめた男だ!オレには泣いているヒマはない!泣くヒマがあったら少しでものし上がれ!オレは天下をこの掌中
(しょうちゅう)に握るまで、決して泣くことはないのだ!たかが歌に、たかがつまらぬ歌ごときに、天下をねらうオレサマを泣かせる権利なんてねえー!」
 妙椿は短冊をにらみつけた。

  あるがうちにかかる世をしも見たりけり人の昔のなおも恋しき  

 震えてきた。
 うるうるしてきた。
 みるみるかすんできた。
「クッソー!東常縁めぇー!」
 もうダメであった。
 妙椿の号泣は止まらなかった。

 泣き終わった妙椿は、京の浜康慶邸を訪れた。
「東常縁殿の縁の者とは貴殿か?」
「はい」
「東殿は歌の友だ。東殿に篠脇城および郡上山田荘を返還しよう」
「え!?」
「ただし一つ条件がある。あと十首、東殿に歌を詠んで送っていただきたい」
「おおお、おやすい御用でっ」

 康慶が常縁のもとにいる春利に手紙を書くと、さっそく返信と常縁の歌十首が送られてきた。

  堀川や清き流れを隔てきて住みがたき世を嘆くばかり

  いかばかり嘆くとか知る心かなふみまよう道の末のやどりを

  かたばかり残さんこともいさかかる憂き身はなにと敷島の道

  思いやる心の通う道ならでたよりも知らぬ古里の空

  たよりなき身を秋風の音ながらさても恋ひしき古里の春

  さらにまた頼むに知りぬうかりしは行末遠き契りなりけり

  木の葉ちる秋の思いよあら玉の春に別るる色を見せなん

  君をしもしるべと頼む道なくばなお故郷や隔てはてまし

  三芳野になく雁がねといざさらばひたぶるに今君によりこん

  吾世経んしるべと今も頼むかな美濃の小山の松の千歳を

「おお、おお、どれも名歌だ」
 喜んだ妙椿は返歌を送った。

  言の葉に君が心はみづぐきの行く末とをらば跡はたがはし

 文明元年(1469)四月、常縁は下総の留守を子の東縁数(よりかず)に命じて上洛し、翌月に妙椿と領地返還式を執り行った。

 京の人々は喝采(かっさい)した。
「武力を使わず、歌を詠んで領地を奪還するなんて聞いたことがない」
「東常縁とは、とんでもない名歌人だ」
「いや、それを認める斎藤妙椿も傑物」
「この荒んだ世で、何という殊勝な心がけの人々か」
「誰もがこのような心がけで常にいれば、領土争いなど絶対に起こらぬものを」

[2012年9月末日執筆]
参考文献はコチラ

※ 領地返還式は京ではなく、斎藤妙椿の居城・加納(かのう。岐阜市)城で行われたとも伝えられています。
※ 斎藤妙椿と斎藤利藤には同一人物説もありますが、どうもそうではないようです。

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