2.河東一乱

ホーム>バックナンバー2002>2.河東一乱(かとういちらん)

今川義元戦国史上最強論
1.花倉の乱
2.河東一乱
3.三河併合
4.善徳寺の会盟
5.美濃・尾張攪乱
6.桶狭間の戦

 天文六年(1537)、義元は武田信虎の娘と結婚した。ここに今川・武田両氏の同盟が成立した。

 信虎は駿河まで義元に会いに来た。娘の夫がどんな男なのか気になったのであろう。それにしても、駿府館のきらびやかさには圧倒された。
「まるで京都将軍家の豪邸のようじゃ」
 建物や庭園、調度品など、物だけではなかった。人もまた、京都そのものであった。
 駿府館には公家もいたし、連歌師もいた。その他多くの文化人もいた。
 今川義元自身も公家のようであった。顔には化粧をし、歯は鉄漿
(おはぐろ。お歯黒)で染めていた。

 義元は言った。
「彼らと話すには、彼らと同じ格好をするのが一番なのです。こうしていれば、彼らも気軽に話をしてくれます。あと、歌や古典の知識も必要ですね。話の中にそれらを盛り込むと、彼らはとても喜ぶんですよ」
 目元が涼しげだった。義元は胴長短足といわれているが、顔だけは良かった。彼の木像
(いずれも中年過ぎのものだが……) がいくつか残っているが、どれもこれも目鼻立ちの整ったいい男である。凧(たこ)に描かれる彼の姿も、歌舞伎役者のようである。顔に自信がなければ、ナルシストでなければ、男は化粧などしないものであろう。

 信虎は笑った。義元を見下した。
「公家や連歌師と話したところで、何の役に立つことがあろう」
 しかし、義元は言った。
「彼らはたえず京都と駿府との間を往来しているのです。京都のことや、京都までの道のりの情報をもたらしてくれるのです。これ以上に役に立つことが、ほかにありましょうか?」
 信虎の笑顔が止まった。そして、仰天した。
(こっ、こやつは京都を目指している! 天下を目指しているっ!)
 義元が扇子
(せんす)を立てて小声で言った。
「いつか共に本物の京都見物に参りましょう」
 信虎は思わず聞いた。
「北条氏綱
(ほうじょううじつな)も一緒にか?」

 北条氏綱は相模等の領主。戦国大名の先駆け・北条早雲の子である。
 早雲の姉・北川殿
(きたがわどの)は今川氏親の母なので、その関係で今川と北条は以前から仲良しだった。
 それに比べ、武田と北条は仲が悪く、長年戦争を繰り返してきた。したがって信虎としては、今川と北条の関係が気になる。

 義元は首を横に振った。再度扇子の陰から小声で言った。
「ここだけの話ですが、余は下克上は好きではありません。北条は下克上です。下克上は我々守護家の敵ではありませんか」
 武田氏は鎌倉時代以来、代々甲斐守護を務めてきた。その点、今川氏と立場は同じである。守護家の彼らからしてみれば、北条氏のような下克上大名の存在は許せるはずはなかった。

 義元は静かに語った。
下克上は争いの根源です。争いは内にも外にも好ましくはありません。争いは、国力を低下させます。弱体化させます。国力が弱くなれば、新たな下克上を生むことでしょう。下克上をなくすには、秩序を守ることです。先人が定めた組織や家訓や法律を守り続けることです。秩序を守るためには、国力を強めなければなりません。下克上を決して許さないだけの、圧倒的な武力を持たなければなりません。何よりも大切なことは、家臣団の団結です。下克上の付け入るスキを与えない、鉄壁の結束です。家臣団がしっかりしていれば、城という物騒なものは最小限で結構なんです。少なくとも本拠に城はいりません。御覧ください。この無防備な駿府館を。戦争は国境で済ませるものです。常に敵を国境でたたきのめしておけば、本拠に城など不要なわけです」
 信虎も同感だった。武田氏の本拠も城ではない。躑躅ヶ崎館
(つつじがさきやかた。武田氏館)という粗末な館である。
「さすがは婿
(むこ)殿」
 信虎は感服して甲府へ帰っていった。

 さて、今川と武田の同盟におもしろくないのは、旧同盟者の北条氏綱である。
「今川が北条に断りもせずに武田と結んだことは、北条との同盟を破棄したのも同然である」
 として駿河東部へ侵攻、富士川以東の駿東・富士二郡を占領してしまった。
 義元は信虎の助けを得て兵を送ったが、氏綱を撃退することはかなわなかった。
「見たか。これが下克上の力よ」
 氏綱は高笑いしたが、天文十年(1541)に病没してしまった。家督を継いだのは、その長男・北条氏康
(うじやす)

 同年、甲斐では武田信玄(当時は晴信だが、以降信玄で統一)が父・信虎を追放、強引に武田家の家督を相続した。
 信玄は、父に駿府へ遊びに行かせ、その帰りに国境を封鎖して通せんぼしてしまったのだ。
「息子に追い出されてしまった」
 信虎は仕方なく、駿府へ戻った。
「婿殿。甲斐には親不孝者しかおらぬ。攻めとっても構わんぞ」
 信虎はそそのかしたが、義元は笑っているだけだった。
(甲斐を攻めるには、まず相手がどんな男なのか見定める必要がある)
 『孫子』にもこうある。あまりに有名な言葉である。

 彼を知り己(おのれ)を知れば百戦殆(あや)うからず。

 天文十四(1545)年、義元は北条に奪われた河東地域を取り戻すために出陣、同盟者の信玄に援軍を要請した。
 父親を世話してもらっている身である。断るわけにも行かない。それに信玄も、義元がどんな男なのか会ってみたかった。
 今川・武田連合軍は駿河狐橋
(きつねばし)で北条軍を撃破、駿河から撤退させることに成功した。
 この戦いで、二人は出会った。信玄もまた、信虎同様、義元の器量に驚き、彼の意のままに行動する規律正しい今川家臣団に度肝を抜かれた。
(さすがはオヤジがべたほめしていた男だ。この男とは戦うより、いいところを吸収したほうがいい)

 後に信玄は、今川氏の分国法「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」を手本にして「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。信玄家法)」を制定している。この法律は二十六か条からなっているが、そのうち十二か条が「仮名目録」を受け継いだものである。

 一方、義元信玄を見て思った。
(この男が生きている間は、余が甲斐を攻めることはないであろう) 

inserted by FC2 system