4.善徳寺の会盟

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今川義元戦国史上最強論
1.花倉の乱
2.河東一乱
3.三河併合
4.善徳寺の会盟
5.美濃・尾張攪乱
6.桶狭間の戦

 天文二十一年(1552)、今川義元を苦しめた尾張領主・織田信秀(おだのぶひで)が病死した。享年四十二歳。家督は嫡男・織田信長が継いだ。
 家臣らが義元に勧めた。
信長は『うつけもの
(愚か者)』といううわさです。今が尾張を攻め盗る好機でしょう」
 しかし義元は慎重だった。
「『うつけもの』というのは、余の油断を誘おうとする信長の作戦かも知れぬ」
「まさかそこまでは考えてないでしょう」
「いずれにしても、信長を攻めれば、美濃の斎藤が黙ってはいまい」

 信秀は死ぬ前に手を打っていた。仇敵(きゅうてき)・斎藤道三と同盟を結び、道三の娘・濃姫(のうひめ。帰蝶)信長の妻にしていたのである。
(三河が併合された今、織田が今川に対抗する手はこれしかない)
 信秀の判断は正しかった。もし、織田が斎藤と組んでいなかったら、桶狭間以前に滅ぼされていたかも知れない。

 義元は思った。
(信長が本当に「うつけもの」であれば、余が攻める前に自滅するであろう)
 なるべく敵と戦わずに勝つ!
 これが義元の信条である。
 自分から滅びてくれる者に対し、無理して戦いを仕掛けることはない。戦わなければならない時も、自力ではなく、なるだけ他力に頼るのである。「敵の敵」を味方につけ、恩に着せて利用し尽くすのである。

 花倉の乱では、武田信虎に援軍を求めた。
 対北条戦では、信虎の子・信玄を利用して戦った。
 対信秀戦では、松平党に戦わせた。

 このように義元の戦いは、すべて他力任せである。今川軍に力が無いわけではない。力があるからこそ、「敵の敵」は味方にならざるを得ないのだ。なんという賢い、あくどいやり方であろうか。

 その一方、国内では「今川仮名目録追加(いまがわかなもくろくついか)」を定めて寄親・寄子を強化、指出検地を行い、貫高制を整備して国力増強に努め、楽市を行い、津料を廃止するなど商業活性化にも尽力している。

(外に戦争、内に内紛が無くなれば、間違いなく国力は強くなる)
 国力が強くなれば、圧倒的な力を外に誇示することができる。そうなれば、戦うことなしに敵を屈服させることも多くなる。敵の幹部を引き抜いて味方につけることもやりやすくなってくる。
(信長は敵が多い。信秀よりも多い)
 義元にとって敵の敵が多いということは、味方が多いも同然である。
 義元は忍者たちがもたらしてくれる尾張情報に耳を傾けた。義元の放つ忍者は有能であった。

 疑問に思われるかもしれない。
「今川に有名な忍者がいたか?」
 史料に残っているような有名な忍者はいない。史料に残っているような忍者は、有名ではあるが有能ではない。本当に有能な忍者というものは、史料に残るような仕事はしないものである。だれにも正体を明かさない、絶対に仕事内容を知られない、歴史上に何の痕跡
(こんせき)も残さない忍者こそ、真の忍者なのである。
 弘治元年(1555)に義元は東宣坊
(とうせんぼう)駿河遠江全土の山伏を支配させている。
 なぜ、そんな命令を発したのか?
 忍者も含まれる山伏たちを、義元は民間に個々に支配させたくなかったからである。

 義元は忍者の情報を元に、信長に不満を持つ武将たちに誘いをかけた。
 その結果、尾張鳴海城
(なるみじょう。名古屋市緑区)主・山口教継(やまぐちのりつぐ)が裏切った。
 尾張守護代家宰・坂井大膳
(さかいだいぜん)も裏切った。
 信長は山口は倒せなかったが、坂井は倒すことができた。
 義元は笑った。
(バカなヤツめ。内輪もめは自分で自分の身体を切り裂いているようなものだ。信長が勝とうと負けようと、織田家は滅亡への道を歩み続けていくのだ)

 天文二十三年(1554)、義元尾張に軍勢を派遣、村木砦(むらきとりで)を築き、織田方の水野信元に圧力をかけた。
 ところが信長は道三の援軍に居城の留守を頼むと、織田軍全軍で村木砦に奇襲を敢行、これを陥れてしまった。
 義元は悔しがった。
「油断した! 信長は『うつけもの』ではない!」
 そこへ北条氏康が駿河国境を侵したという知らせが届く。
 義元はやむなく信濃侵攻に熱中していた信玄を連れ出すと、氏康と駿河刈屋川
(かりやがわ)で対陣した。

 義元はイライラした。
(こんなことをしている間に、あれだけいたぶっておいた信長が息を吹き返してしまうではないか!)
 かといって、難敵・氏康をほうっておくわけにはいかない。
 軍師・太原崇孚は人事のように笑った。
「西にも敵。東にも敵。どちらか一方に集中できないものですかな」
 義元はひらめいた。
(そうだ! どちらか一方と同盟を結んでしまえばいいのだ!)
 二者択一である。
 北条も織田も義元が嫌いな下克上であるが、この際そんなことは言っていられない。義元は北条と結び、織田を討つことにした。理由は簡単、織田の西方には京都があり、天下があるからである。

 義元は氏康に講和を提案した。
(北条・今川・武田間で三国同盟を締結しようではないか)
「三国同盟だと」
 氏康は驚いた。
 そのような同盟はかつて聞いたことがなかった。が、大国今川と弓矢を交えなくもよくなることは、大いに魅力だった。
 氏康は承諾した。当然信玄にも異存はなかった。

 こうして義元信玄・氏康の三者会談が善徳寺で開かれ、駿甲相三国同盟が締結された。
 信玄の娘が氏康の子・北条氏政
(うじまさ)に、氏康の娘が義元の子・今川氏真(うじざね)に嫁ぎ、三つ巴(どもえ)の親類になったのである(これ以前、義元の娘が信玄の子・武田義信に嫁いでいる)
 氏康は満足した。
(これで背後を気にせず関東制覇に乗り出すことができる)
 信玄もまた、満足した。
(これで背後を気にせず信濃を攻略し、気兼ねなく上杉謙信と戦うことができる)
 義元もである。
(これで背後を気にせず信長を倒し、上洛して天下を取ることができる)

 三国同盟締結は、三者三様の利益をもたらした。
 だが、だれが一番得なのかは、読者の方々、当然お分かりであろう。
(天下か――)
 良い響きだった。以後の義元の目は、京都のある西方だけに向けられた。
 同時にその方角には、極楽浄土もあるのだが――。


※ 三者の同盟を「甲相駿三国同盟」と表記する人も多いですが、雪斎の建議で義元が主導したとみられますので、「駿甲相三国同盟」としました。

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