5.美濃・尾張攪乱

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今川義元戦国史上最強論
1.花倉の乱
2.河東一乱
3.三河併合
4.善徳寺の会盟
5.美濃・尾張攪乱
6.桶狭間の戦

 斎藤道三は梟雄(きょうゆう)である。
 生まれは山城とも美濃ともいわれ、永楽銭
(えいらくせん)の穴を槍(やり)で突くという妙技を美濃守護土岐氏(ときし)氏の重臣・長井長弘(ながいながひろ)に認められて仕官し、次々と上司を殺したり追っ払ったりして美濃領主にまで成り上がった「ミスター下克上」である

 今川義元は当然、その男の情報も忍者から得ていた。
「商人出身だそうだな」
 義元は嫌な顔をして尋ねた。彼は商業を重視していた。商業は国を活性化させ、国力を増大させるエネルギーになるものである。商人出身であれば、道三も当然そのことに気づいているはずだ。
「僧でもあったそうですよ」
 忍者の言葉に、義元はますます嫌な顔をした。自分も僧出身で、僧時代に軍学書を読みあさっていたものだ。
「そんなヤツが
織田信長と組んでいては厄介だ。道三の近辺を徹底的に調べ上げよ」

 しばらくして、忍者が情報をもたらしてきた。
「道三の長男は斎藤高政
(たかまさ。後の義竜。「決断味」参照)といいますが、こいつが土岐頼芸(ときよりのり・よりなり・よりあき。「ロス味」参照)の落胤(らくいん)ではないかといううわさがあります」

 土岐頼芸とは、道三の前の美濃領主である。
 土岐氏は摂津源氏の祖・源頼光
(よりみつ)の子孫で、南北朝時代、土岐頼貞(よりさだ)足利尊氏に従って以来、代々美濃守護に任じられてきた名門であった(「秘密味」参照)
 はじめ道三は頼芸に取り入り、愛人・深芳野
(みよしの)を下げ渡されるまでのお気に入りになったが、天文十一年(1542)、突然牙(きば)をむき出し、頼芸を大桑城(おおがじょう。岐阜県山県市)城に攻めて追放してしまったのである。高政は深芳野から生まれたが、彼女は道三に嫁ぐ前にすでに妊娠していたともいわれている。

 義元は興味を示した。
「高政が頼芸の子だとすると、道三は親どころではなく、親の敵ではないか。そのうわさは真実なのか?」
「いえ。どうやら違うようです。道三は六年前に本拠・稲葉山城
(いなばやまじょう。井ノ口城。後の岐阜城)を高政に譲って事実上は隠居しています。もし高政が実子でなかったら、道三は高政の弟たちのいずれかを後継ぎにしたことでしょう」
 高政の弟たちには、次男・竜重
(たつしげ。斎藤義重)や三男・竜定(たつさだ)らがいる。
 義元は笑った。
「うわさの真偽はどちらでもよい。稲葉山城下にそのうわさを広めて混乱させるのだ。尾びれ背びれ胸びれもつけてな」
「承知」

 忍者は稲葉山城下でうわさを流しまくった。
「高政様は実は道三の子ではなく、土岐頼芸様の落とし胤だそうだ」
「深芳野御前は頼芸様のお胤を宿されたまま、道三様に嫁いだそうだ」
「本当は道三は高政を廃嫡にし、竜重様を後継者にしたがっているらしい」

 高政は動揺した。
「おれが頼芸の子だというのは事実なのか? 単なるうわさではなかったのか?」
 近臣・日根野弘就
(ひねのひろなり)が小声で明かした。
「それが事実なんですよ」
 美濃曽根城
(そねじょう。岐阜県大垣市)主・稲葉良通(いなばよしみち。稲葉一鉄)美濃北方城(きたがたじょう。岐阜県北方町)城主・安藤守就(あんどうもりなり。安藤道足)美濃大垣城(おおがきじょう。岐阜県大垣市。「権力味」参照)主・氏家直元(うじいえなおもと。氏家卜全)、いわゆる美濃三人衆(西美濃三人衆)も否定しなかった(「暴力味」参照)
 実は彼ら旧土岐氏重臣たちにも、義元は「ゼニ」という名の触手を回していたのである。
 高政は震え上がった。
「では、おれを廃嫡にするといううわさも事実なのか?それが事実なら、いったいおれはどうしたらいいのだ?」
 弘就は言った。
「おっしゃるまでもないこと。弟たちを殺し、道三を攻め滅ぼしてしまえばいいだけのことです」
「親兄弟を殺せというのか!」
「親兄弟ではございません。親の敵どもでございます」
 高政は身を縮めた。彼は大男だったというが、そんなに度胸は大きくなかったらしい。
「か、勝てるのか――? あの、人々からマムシと恐れられているオヤジに……」
 弘就が本性をあらわした。
「勝てますとも! 殿には我らが土岐氏旧臣たちがついております。そして我らの背後には、駿・遠・三を領する大大名もついております!」
「駿! 遠! 三! 治部大輔
(じぶのたいふ)今川義元か!!」
「さようで。義元様は一色
(いっしき)高政を援助し、逆賊道三を滅ぼした暁には治部大輔の官職をお譲りになると」
「一色高政か――。うひっ! いい響きだ。しかもあの、天下の義元公が、このおれに治部大輔を譲ってくださるというのか――」
 生母・深芳野の実家は一色氏である。一色氏は足利氏の支流で、室町幕府四職に連なる名家であった。
 弘就はささやいた。
義元様はこうも激励されました。『北朝の盟友同士、ともに下克上を滅ぼし、古き良き足利時代を再興しようではないか』と」
 建武の親政以来、土岐氏や一色氏は、今川氏とともに足利氏に従い、全国各地で南朝諸将と死闘を繰り広げてきた。そういった昔からの盟友同士つるもうともちかけてきたのである。
 高政は興奮した。
「ほほほっ! おれたちは北朝連合というわけか! 義元公はそんなにまでおれのことを期待して下さっているのか! おれはやるぞ! やってやるぞ!」

 高政は踊らされた。天下を望む義元の策謀に、まんまと引っかかってしまった。
 高政はさっそく弟の竜重・竜定をだまして呼び寄せてぶっ殺すと、道三を倒すべく兵を挙げた。
「おれは道三の子ではない! 先君土岐頼芸の子である! よって、親の敵・道三を討つ! 逆賊道三に味方したい者は止めはせぬ。とっとと出て行け! 別れ際に一ついいことを教えてやろう! おれには駿・遠・三の太守、今川義元公がついている!」
 家来たちは驚いた。突然のことに、周りの人々を見回した。
 道三に味方する者は、ごく少数しかいなかった。高政には、親の敵を討つという大義名分があるのである。今川義元という戦国最強の大大名がついているのである。

 高政の挙兵を聞いて、道三は怒り狂った。
「高政め! 根も葉もないうわさに惑わされよって! さようなつまらない男であったのならば仕方がない。返り討ちにしてくれよう!」
 道三は覚悟を決めて兵を集めた。道三の兵は二千人
(二千七百とも)と伝えられている。これに対し、高政軍は二万人(一万七千とも)
 両軍は長良川
(ながらがわ。岐阜市)をはさんで戦ったが、多勢に無勢、勝負は初めから決まっていた。決着はすぐにつき、道三は討たれ、その首は兵たちの奪い合いになった(長良川の戦)

 信長は道三を助けるべく、軍勢を率いて美濃へ向かったが、木曽川(きそがわ)まで来たところでその死が知らされた。
「オヤジ殿!」
 信長は道三を慕っていた。彼は最大の味方、最高の理解者を失ったのである。

 戦後、高政は治部大輔に任ぜられ、幕府の相伴衆(そうばんしゅう)に列せられた。おそらく、義元の取り計らいであろう。

 義元は同時進行で尾張の攪乱(かくらん)も行っていた。
 弘治元年(1555)以降、信長近辺には近親者の事故や内乱が多くなる。以下がその主なものである。

  1555  信長の弟・織田秀孝(ひでたか)、誤って射殺される。
 信長の叔父・織田信次(のぶつぐ)、失踪(しっそう)する。
 信長の叔父・織田信光(のぶみつ)、家臣に殺される。
  1556年  信長の弟・織田秀俊(ひでとし。織田信時とも)、家臣に殺される。
 信長の弟・織田信行(のぶゆき。織田信勝とも)、謀反を起こして降伏。
 信長の兄・織田信広、謀反未遂。
  1557年  信行、再び謀反を起こそうとして殺される。

 これら一連の事件を尾張統一を目指す信長の謀略と見ることもできるが、私はむしろ尾張を攪乱させようとする義元の仕業ではないかと疑っている。
 義元は調略・刺客・讒言
(ざんげん)・流言などなど、ゼニや忍者を駆使し、ありとあらゆる手段を用いたのであろう。「なるべく敵と戦わずに勝つ!」ために。

 永禄二年(1559)、信長は高政と結んで歯向かっていた岩倉城(いわくらじょう。愛知県岩倉市)主・織田信賢(のぶかた)を追放、尾張のうち、義元の支配の及んでいない地域をほぼ平定した。以下がいまだに今川方の城砦である。

鳴海城(なるみじょう。名古屋市緑区。守将・岡部元信)

大高城(おおたかじょう。緑区。守将・鵜殿長照)

品野城(しなのじょう。瀬戸市。守将・松平家次)

笠寺砦(かさでらとりで。名古屋市南区。守将・葛山勝嘉)

沓掛城(くつかけじょう。豊明市。守将・近藤景春)

蟹江城(かにえじょう。蟹江町) など

 知らせを聞いて義元は喜んだ。
「そうか。やはり信長が勝ち残ったか。よくがんばったものだ。ごほうびに余が自らとどめを刺してやろう」
 義元は出陣の準備を始めた。
 尾張バトルロイヤルを演じさせ、一人勝ち残ったフラフラの信長を、新手の大勢でもってリンチを仕掛けようというのである。卑怯
(ひきょう)もいいとこだが、それが義元のやり方であった。

 これ以前、義元のところには、将軍・足利義輝(あしかがよしてる。「剣豪味」参照)の密書が届けられていたことであろう。
「上洛して管領代
(かんれいだい)になってくれ。いや、そちなら管領になってもおかしくない家柄じゃ。頼む。早く京都に来て、うるさい三好長慶(みよしながよし)らを追っ払ってくれ。ヤツとの講和は形だけじゃ。本当は嫌いなんじゃ」
 義輝の懇願は、義元にとって「渡りに船」だった。彼は義輝に次のような返書をしたのであろうか?
「もうしばらくお待ちください。余が織田を滅ぼせば、一色
(斎藤)と佐々木(六角)が北畠を討ち、京都への道を開けてくれることでしょう」
 斎藤高政と南近江領主・六角義賢
(ろっかくよしかた。六角承禎)は同盟国である。したがって、斎藤氏と結んだ義元は、六角氏とも結んだことになるのである。

 永禄三年(1560)五月十二日、義元は二万五千(二万七千とも)の大軍を率いて駿府を出発した。
「余は天下を取る!」
 しかし、義元の野望達成への前奏曲
(プレリュード)になるはずだった信長との戦いは、彼の最期の戦いになってしまうのであった。


※ 最近では美濃国盗りは斎藤道三一代ではなく、道三の父と二代で行ったという説が有力です。

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