6.桶狭間の戦

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今川義元戦国史上最強論
1.花倉の乱
2.河東一乱
3.三河併合
4.善徳寺の会盟
5.美濃・尾張攪乱
6.桶狭間の戦

 今川義元襲来!
 尾張国内は騒然とした。それこそ元寇のときのような騒ぎだったことであろう。
義元公が上洛するそうだ」
「行き掛けの駄賃
(だちん)に、織田家は滅ぼされるそうだ」
「げげやげー!」
「今川は本気やであかんわ。なんと四、五万の大軍でやってくるそうな」
「四万! それってケタいくつじゃ?」
「それらがまるで義元の手足のように自由自在に動き回る」
「どえりゃーことだがやー!」
 義元配下の忍者は、四万人とも四万五千とも誇張して尾張国内に広めた。未曽有
(みぞう)の一大事だけに、うわさが広まるのは早い早い。

 義元は、遠江掛川・引馬(ひくま。静岡県浜松市)三河吉田(よしだ。愛知県豊橋市)・岡崎・池鯉鮒(ちりゅう。愛知県知立市)をへて、十八日に尾張に入り、沓掛城に着陣、松平元康に大高城の兵糧入れを命じた。

 大高城は北の鳴海城とともに、今川軍の尾張侵攻拠点である。
 そのため、織田信長はこの城を奪還するために、周囲に鷲津砦
(わしづとりで。緑区)・丸根砦(まるねとりで。緑区)を造営、兵糧を絶っていたのである。信長は鳴海城の周囲にも、善照寺砦(ぜんしょうじとりで。緑区)・丹下砦(たんげとりで。緑区)・中島砦(なかじまとりで。緑区)を築いていた。
元康、できるか?」
「おまかせください」
 竹千代と呼ばれていた人質も、すでに十九歳の青年武将に成長していた。義元と同じく、太原崇孚の直弟子である。
 義元が元康の若武者振りを見て、しみじみと言った。
「師に、この姿を一度見せてやりたかった……」
 太原崇孚はこれより五年前に没していた。

 元康は大高城へ向かった。敵の目をかいくぐり、見事に兵糧入れを成し遂げた。
「でかした元康!」
 義元元康をほめたたえた。そして、言った。
「明朝の丸根砦攻めはそちが大将だ。一方の鷲津砦攻めの大将は、朝比奈泰朝
(あさひなやすとも。親の朝比奈泰能ともいう)。競って落とすべし」
「はいっ」
 元康はうれしそうだった。
 名誉ある先鋒を任せられたのである。しかも、今川の重臣・朝比奈と同等の立場。奮起しないわけにはいかなかった。
 対する朝比奈も、松平の若造なんかに負けるわけにはいかない。躍起になって手柄を立てることであろう。
 能力あるものは年齢・経験にかかわらず、すぐに要職に抜擢
(ばってき)する。能力のあるもの同士を競わせて、競争心をあおらせる。義元とはそういう武将である。
 義元は思った。
(両砦は遅くとも今日中に陥落するであろう。明日は全軍でもって信長の本拠・清洲城
(きよすじょう。清須城。愛知県清須市)城攻めだな)

 その夜、「義元発つ」の知らせが清洲城にもたらされ、ただちに織田家の重臣たちが集められた。
「今川軍は四万の大軍。それに対し我が軍は三千。どう無理してかき集めても五千足らず。勝ち目はありませぬ。今川の上洛に助力するしかありませぬ」
「今になって今川に味方すれば、織田党は松平党の下位に立たされることになるのだぞ。先兵の先兵として酷使されることになるのだぞ。そのように屈辱、我慢できるものか。清洲に 籠城
(ろうじょう)して勝機を待つべし」
「この際、みなで伊勢に逃亡してはどうか。伊勢の北畠もいずれ攻められる身。我らの心情は理解できるはずだ。それからのことはそれから考えようではないか」
 信長は重臣たちの話を聞いていたのかいないのか、
「今夜はもう遅い。みなももう帰って寝ろ。十分眠っていなければ、戦うことも逃げることもできぬわ」
 と、早々に軍議を切り上げて寝てしまった。

「ああ、尾張も終わりじゃ」
 重臣の一人がつぶやくのが聞こえた。
 そんなことは信長にも分かっていた。義元という男は、絶対に勝てる舞台が整うまで決して動かない男である。その男が動いたということは、信長には万分の一の勝ち目もないということである。
 かといって信長は、今川の軍門に下ることはできなかった。義元は父・信秀以来の仇敵である。北の仇敵・斎藤道三と同盟してまで、何が何でも倒したかった男であった。
「いずれおれは義元を倒す。義元を倒して、天下一の大大名になる」
 小さいときから、そう父から聞かされてきた。その父は、義元を倒すことなく死んだ。義元に敗れて死んだわけでなく、流行病で亡くなってしまった。無念だったことであろう。悔しかったかったことであろう。
 悔しかったのは、父だけではなかった。信秀の葬儀のとき、信長はその位牌
(いはい)に抹香(まっこう)を投げつけ、何かを叫んだという。
義元を倒すのではなかったのか!」
 信長は泣いた。彼もまた、悔しかったのだ。
義元は父に代わっておれが倒す!」
 そのために、信長は戦ってきた。義元と戦い、これを倒すために、死ぬ気で反対分子と戦い、勝ち残ってきたのである。
(おれに降伏という文字はない。籠城には勝ち目がない。打って出て、義元を討ち取る。たとえおれは死んでも、義元よりは後に死ぬ!)
 横になりながら、信長は考えた。何とかして義元を討ち取る方法がないものかと、脳内を探り求めた。
 奇襲――。
 そんな作戦を思いついた。不意を突くよりほかに勝てる見込みはないであろう。そのためには、今川軍の動きを知らねばならない。彼は忍者の情報を待った。

 夜半過ぎ、忍者が情報をもたらしてきた。
義元が沓掛城に入りました」
 信長は近辺の地図を頭に描いた。
 明日、義元は大高城へ向かうだろう。戦況次第で鳴海城へ向かうかもしれない。どちらにしても義元が通過しなければならない場所があった。
 田楽狭間
(でんがくはざま。豊明市)というくぼ地である。
 信長はがばっと起き上がった。
「勝てる! 勝てるかもしれない……。義元が田楽狭間を通過するときに、背後の太子ヶ嶺
(たいしがみね)から奇襲を仕掛けることができれば――」
 信長は人を呼んだ。手早く鎧
(よろい)を身に着け、湯漬けをかきこみ、
「人生五十年〜」
 と、お気に入りの幸若舞
(こうわかまい)の「敦盛(あつもり。「猛暑味」参照)」の部分を舞った後、
「出陣じゃー!」
 と、雄たけびを上げ、単騎、城を飛び出したのである。
「殿が血迷われた!」
 小姓たちはバタバタ慌てた。そして、
「ぼくたちも血迷うんだぁー!」
 と、信長を追った。

 信長は熱田神宮(あつたじんぐう。名古屋市熱田区)にて必勝を祈願した。
 信長は神を信じていなかったであろうが、家来の中には信じている者もいるはずである。兵が到着するまでの単なる時間稼ぎだったとも言われている。
 この間に織田軍が集結、千八百人に膨れ上がった。それでもまだ、今川軍の十分の一にも満たないが――。

 信長は丹下砦・善照寺砦で兵をかき集め、中島砦に入った。これで織田軍本隊は三千足らずになった。ただしその際、佐々勝通(さっさかつみち)・千秋季忠(せんしゅうすえただ)ら三百人が本隊移動の目くらましのため鳴海城を攻撃、打って出てきた岡部元信隊によって壊滅している。

 一方、今川軍先鋒は夜明けと共に、鷲津・丸根砦に攻撃を開始していた。
 鷲津砦は織田秀敏
(ひでとし)が守将。砦兵五百人に対して朝比奈泰朝・井伊直盛(いいなおもり)隊二千人が猛攻、間もなく陥落させた。
 丸根砦は佐久間盛重
(さくまもりしげ)が守将。砦兵四百人に対して松平元康隊二千五百人が猛撃、こちらもほどなくして陥落させた。

桶狭間の戦い対陣図
桶狭間の戦対陣図 (推定含む)

 義元本隊五千人は沓掛城を発した。
 今日中に鷲津・丸根砦が陥落するのを見越し、田楽狭間・桶狭間
(緑区)をへて大高城へ入ろうというのである。途中、忍者が信長の様子を次々と知らせてくる。
「今朝未明、信長が清洲を出撃しました」
信長、熱田神宮に参拝。その数約二千!」
信長、丹下砦に入りました」
信長、善照寺砦に入りました。本隊約三千!」
 義元は確信した。信長の作戦を見破ったのである。
(信長は少ない手勢を結集させて余に奇襲を仕掛けてくるつもりだ。打って出てきた信長に、ほかに勝てる方法はない)
 義元は地図を広げて考えた。
(田楽狭間が怪しい。怪しいところはほかに見当たらない。間違いない。信長は田楽狭間での奇襲を考えている。ならば余は信長のウラをかき、奇襲軍を逆に奇襲してくれよう)
 作戦は決まった。信長義元を田楽狭間で奇襲すれば勝てるかもしれないと思ったように、彼もまた、信長を奇襲して田楽狭間に突き落とすことによって、これを討ち取ることを確信したのである。
(信長は田楽狭間で死ぬのだ! 信長さえ討ち取れば、明日の清洲攻めは無血開城になるであろう!)
 そこへ、
「鷲津砦が陥落しました!」
「丸根砦が陥落しました!」
 と、吉報が届く。
「もう両方とも落ちたか」
 義元は喜んだ。予想よりも早かった。
 また追加の吉報があった。
「鳴海城に攻めてきた佐々・千秋隊を壊滅させました!」
 何もかもがうまくいっていた。義元は上機嫌で忍者にこう命令した。
「『義元本隊は田楽狭間で領民たちの歓迎を受けて昼食をとっている』とふれさせよ」
 偽りの情報を流させたのである。作戦は完璧
(かんぺき)のように思われた。しかし、後から思えばこの命令は余分だった。義元は油断していた。彼は失敗に気づいていなかった。

 義元は進軍を速め、すばやく田楽狭間を通り過ぎると、桶狭間の小山に陣を取った。
 軍勢は少しでも高いところにいるほうが有利である。敵を見渡すことができるし、坂に向かうより坂を背にして戦ったほうが戦やすいからである。
 『孫子』にもこうある。

 およそ用兵の法は高陵(高い丘)へ向かうなかれ。

 山を絶つ(越える)には谷に依(よ)(沿い)、生(高地)を視(み)て高きに処り、隆(たか)きに戦いては登ることなかれ。

 一方、田楽狭間へ向けて進軍していた信長のところに、鷲津・丸根砦陥落という情報が届いた。
 また、義元からの偽りの情報も届けられた。
義元は田楽狭間で領民たちの歓迎を受けて昼食をとっています」
「勝てるかも!」
 家来たちは喜んだが、信長は青ざめた。義元に作戦が見破られたことを感づいたのだ。
義元ほどの武将が、田楽狭間などという見晴らしの悪いくぼ地で昼食を取るはずがない……。これはワナだ! すべておれたちを誘い出すためのワナだったのだ!」
 『孫子』にもこうある。

 およそ地(地形)に絶澗(谷間)・天井(井戸)・天牢(狭所)・天羅(草むら)・天陥(泥沼)・天隙(洞穴)あらば、必ず亟(すみ)やかにこれを去りて近づくことなかれ。吾(われ)はこれに遠ざかり、敵はこれに近づかしめよ。吾はこれを迎え、敵にはこれを背せしめよ。

 信長は進軍を止めた。
 雨が降り始めた。ぽつりぽつりと雨粒は次第に大きくなり、豪雨になった。
 雷鳴とどろく中、信長は覚悟を決めた。
義元はすでに田楽狭間を通り過ぎ、桶狭間辺りに着いている。全軍、桶狭間へ向かう!」
 家臣たちが止めた。
「殿、それは無謀ですぞ! 桶狭間へ向かうには、正面の今川軍を突破しなければなりませぬ。我が軍はわずか三千! 回り道して義元本陣を奇襲すること以外に勝ち目はありませぬ! 正面攻撃しては、義元本陣まで、届きませぬぞ!」
義元は我が軍の奇襲を予測し、田楽狭間にワナを仕掛けているのだ! それが分かったからには、ウラをかいても無駄だ。意表をついたことにならないのだ! こうなった以上、正面から攻撃するよりほかに手はない!」
「無茶です! 多勢に無勢なんです! 全軍玉砕ですよっ!」
「だまれ! 敵もそう思っているであろう! そのため正面からは決して攻めてこないと決め込んでいるであろう! 奇襲作戦が見破られたということは、正面から攻めることこそ逆に奇襲になるのだ! それに敵は鷲津・丸根砦攻めで疲れている! 疲労しきっている! 我が軍は新手の軍勢だ! 勝てないはずがない! おれに続けー! 続くのだーっ!」

 豪雨は当然、桶狭間の山に陣していた義元のところでも降り始めた。滝のような土砂降りで、一寸先も分からないほどである。
「なんて豪雨だ。まるで竜がほえているようだ」
 義元は木陰で雨宿りした。
 彼には一つ、気になることがあった。忍者がぱったり来なくなってしまったことである。
「動きがないから、知らせる必要もないのでしょう」
信長は今どこだろう? もうそろそろ太子ヶ嶺に姿をあらわす頃だが」
「この豪雨です。土砂崩れで自滅したか、ぬかるみに足を取られて人馬もろとものた打ち回っているんでしょう」
 義元は吹き出したが、情報が得られないことが不安だった。
「それならいいが――」

 雨はまもなくやんだ。
 すると今度は北のほうからギャーギャー騒ぎ声が聞こえてきた。松井宗信
(まついむねのぶ)隊のほうである。
「なんだ? ケンカか?」
 そこへようやく忍者がやって来て告げた。
「敵襲です!」
 義元が思わず尋ねた。
「どこに?」
「ここに!」
「なぜ、もっと早く伝えぬ!」
「だって――。うげっ!」
 忍者は見知らぬ男に蹴
(け)倒された。本陣の幕を破って武者が一人、躍りこんできたのである。
義元公だなっ。織田家中・服部小平太春安
(はっとりこへいたはるやす)! 見参っ!」
 言葉より先に槍先が飛んできた。
「下がれ! 下郎っ!」
 義元は床几
(しょうぎ)に腰掛けたまま、名刀「左文字(さもんじ)」を抜きざまに横に振り払った。
 居合抜きである。
 居合はこの頃、神明夢想流
(しんめいむそうりゅう)を開いた剣豪・林崎重信(はやしざきしげのぶ)によって創始されたものだが、義元はどこでこの技を習得したのであろうか。
 「左文字」は服部の槍先をはね飛ばし、ひざの皿を勝ち割った。
「うわっ!」
 血しぶきが飛び、服部、前へつんのめる。
 返す「左文字」でとどめを刺そうとした義元に、横からもう一人、
「毛利新介良勝
(もうりしんすけよしかつ)、助太刀いたす!」
 と、体当たりを食らわしてきた。不意を突かれ義元は転倒、毛利に組み伏せられた。
「どけっ! 貴様のような下郎に首など打たれてたまるものか!」
 義元はもがいた。暴れた。
「余は天下を取るのだ! こんなところで死んでたまるか!信長になどに負けてたまるかっ! 放せ! 放さぬかーっ!」
 義元は、首をかこうとあごに手をかけてきた毛利の親指を食いちぎった。毛利はひるむことなく、義元の首を討ち取った。
「毛利新介良勝! 今川義元を討ち取ったりー!」

 桶狭間の戦は終わった。
 まさかの義元の敗死によって、今川軍は総崩れとなった。

 義元信長の情報を正確に把握していた。その戦力が三千足らずということも。信長が清洲を出てどこへどう向かったかも。そしてその動きから、信長の奇襲作戦を見破ったのである。彼を追い詰め、彼に無謀な正面攻撃を覚悟させたわけである。
 戦略的には完全に義元のほうが勝っていた。いや、勝りすぎていた。すべてがうまく行き過ぎていたために、義元ともあろう名将が油断してしまった。
(たった三千しかいないのか)
 知らず知らずのうちに、信長を侮っていたのである。バカにしていたのである。あまりに正確な情報を知りすぎたために――。
 その結果、信長が開き直ってやけっぱちでやった正面攻撃は、かえって窮鼠
(きゅうそ)がネコをかむという大どんでん返しを演出してしまった。
 しかも直前の豪雨によって、義元は間近まで敵が近づいていることに気が付かなかった。忍者もまた、突然進路を変えた信長の動きを見失ってしまっていた。 
 運である。信長の勝因は「運が良かった」それにつきるのである。それでも「運も実力の内」と言ってしまえば、信長はやはり勝つべくして勝ったといえるかもしれない。

 戦後、信長は、鳴海城守将・岡部元信から、
「御大将の首を返していただきたい」
 と、要求されるがまま駿府に首を送り届けている。また、義元の菩提を丁重に弔わせている。
 後に浅井長政
(あさい・あざいながまさ)らの首を杯にし、武田勝頼の首を足蹴りにする信長がである。

 信長義元の愛刀だった「左文字」を自分の愛刀とした。人に盗られないように「織田上総介信長」と、名前まで書いておいた。
 以後信長は、この愛刀を片手に各地を転戦、天下布武の道を突き進んでいくことになる。
「余は天下を盗る!」
 まるで義元の執念がそのまま乗り移ってしまったかのように――。

[2002年6月末日執筆]
ゆかりの地の地図
参考文献はコチラ
 

※ 桶狭間の戦の古戦場と伝えられている場所は、「桶狭間(名古屋市緑区)」と「田楽狭間(愛知県豊明市)」の二か所あります。この物語では「桶狭間」を戦地とし、「田楽狭間」は義元が仕掛けたワナとしました。
※ この戦いで戦功第一とされた梁田政綱(簗田広正?)が具体的に何をしたかは定かではありません。義元が桶狭間にいるのを知らせたとも、桶狭間急襲作戦に唯一賛同したとも言われています。
※ 織田軍には南近江の六角義賢の援軍も参戦していたそうです。

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