9.最強味 基礎用語集 | ||||||||||||||
●足利尊氏(あしかがたかうじ)
(1305-1358) はじめ高氏。武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後、鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武(けんむ)の親政(しんせい)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦いで新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府、後醍醐天皇の開いた南朝と戦い、1339後醍醐天皇が没すると、夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで弟・足利直義(ただよし)とともに天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)では、執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義とも交戦した。
●今川義元(いまがわよしもと)
(1519-1560) 武将。駿河等守護。今川氏親(うじちか)の子。長兄氏輝(うじてる)死後、1536花倉の乱で次兄の玄光恵探(げんこうえたん)を破って家督を継ぎ、三河の松平氏を併合して尾張東部まで領国を拡張、いち早く検地を行い、商工業振興や富国強兵に努め、1553分国法「今川仮名目録追加(いまがわかなもくろくついか)」を制定、1554善徳寺(ぜんとくじ)の会盟で、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と三国同盟を締結、後方の憂いを無くして京都に向かうが、1560桶狭間(おけはざま)の戦いで尾張の織田信長(おだのぶなが)に敗死した。
●上杉謙信(うえすぎけんしん)・政虎(まさとら)・輝虎(てるとら)・長尾景虎(ながおかげとら)
(1530-1578) 武将。越後守護代。関東管領。長尾為景の子。1548家督を継ぎ、1550越後国主となり、信濃北部に進出した甲斐の戦国大名・武田信玄と数度交戦(川中島の戦い)、関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)の頼みで関東の戦国大名・北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、1561関東管領を継承、1573越中を平定して織田信長を攻めるが、1578急死した。
●織田信長(おだのぶなが)
(1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
●貫高制(かんだかせい)
土地から取れる年貢の量を貫文(銭)で換算し、軍役などの基準とした制度。戦国時代に主な戦国大名が採用したが、安土桃山時代の太閤検地によって石高制へと移行した。。
●管領(かんれい)←執事(しつじ)
室町幕府の将軍補佐役。足利家執事&室町幕府政務長官。足利尊氏(あしかがたかうじ)の執事・高師直(こうのもろなお)が起源。後には三管領家(細川・斯波・畠山氏)から交替で選ばれた。
●京都(きょうと)
現在の京都府京都市。府庁所在地。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。
●下克上(げこくじょう)
下の者が上の者をしのぐこと。鎌倉時代に現れ、南北朝〜戦国時代にかけて盛んになった風潮。これにより各地に戦国大名が゛出現し、一揆が蜂起した。
●元寇(げんこう)・蒙古襲来(もうこしゅうらい)
文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役(えき)のこと。
●建武の親政(けんむのしんせい)
(1333-1336) 建武の中興とも。鎌倉幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇の政治。後醍醐天皇は中央に記録所(政務)・雑訴決断所(訴訟)・恩賞方(論功行賞)・武者所(軍事・警察。頭人新田義貞)など、地方に鎌倉将軍府(関東統治)・陸奥将軍府(東北統治)・国司・守護などを設置して親政を行ったが、足利尊氏の反乱によって崩壊した。
●古今和歌集(こきんわかしゅう)
平安時代の歌集。勅撰和歌集。八代集の最初。二十巻。905醍醐(だいご)天皇の命で紀貫之(きのつらゆき)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)らが編集。約千百首を収録。
●古事記(こじき)
現存日本最古の歴史書。三巻。紀伝体。天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱していた昔話を太安万侶(おおのやすまろ)が編集。神代〜推古朝までを収録。
●指出検地(さしだしけんち)
検地(土地調査)のうち、戦国大名が土地を与えた家臣などに面積・収穫高などを自主的に報告させたもの。
●四鏡(しきょう)
鏡の名を持つ歴史物語の総称。以下四つ。
書名 | 成立年代 | 巻数 | 著 者 | 編集範囲 |
大 鏡 | 平安後期 | ? | ? | 平安中期(文徳〜後一条) |
今 鏡 | 平安末期 | 10 | ? | 平安後期(後一条〜高倉) |
水 鏡 | 鎌倉初期 | 3 | 中山忠親? | 大和〜平安前期(神武〜仁明) |
増 鏡 | 南北朝時代 | 17 | 二条良基? | 鎌倉時代(後鳥羽〜後醍醐) |
●四職(ししき)
室町幕府の大名家の家格の一。侍所所司(頭人)に任じられる資格のある主要四家のこと。山名(やまな)・赤松(あかまつ)・一色(いっしき)・京極(きょうごく)氏。当初は土岐氏も入れて五職だった。
●守護(しゅご)
鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、近現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代に下克上により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。
●征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・将軍
蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。
●新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)
勅撰和歌集。八代集の最後。二十巻。後鳥羽上皇の命で源通具(みなもとのみちとも)・藤原定家(ふじわらのさだいえ・ていか・)・藤原家隆(いえたか・かりゅう)らが編集。約二千首を収録。
●戦国大名(せんごくだいみょう)
戦国時代に各地に割拠した大領主。守護(しゅご)大名から移行したもののほか、守護代や国人(こくじん)から台頭したものもある。
●太平記(たいへいき)
軍記物語の一。四十巻。応安年間(1368-1375)成立。小島法師?著。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱を描く。
●武田勝頼(たけだかつより)・諏訪(すわ)勝頼
(1546-1582) 武将。甲斐等領主。信玄(しんげん)の子。父の死後も勢力を拡大したが、1575長篠(ながしの)の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗して衰退、1582天目山(てんもくざん)の戦いで敗れて自殺した。
●武田信玄(たけだしんげん)←武田晴信(はるのぶ)
(1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦で義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦で徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという説もある)。
●津料(つりょう)
幕府・貴族・戦国大名・大寺社などが徴収した港の使用料。
●庭訓往来(ていきんおうらい)
玄恵?著。往来物(簡易教科書)の一つ。二十五通の手紙形式。
●徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
(1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。
●豊臣秀吉(とよとみひでよし)・羽柴(はしば)秀吉・木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
(1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦いを経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。
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●南朝(なんちょう)
(1336-1351,1352-1392) 1336足利尊氏によって京都を追われた大覚寺統(だいかくじとう)の後醍醐(ごだいご)天皇が大和の吉野(よしの。奈良県吉野町)に立てた朝廷。後醍醐・後村上(ごむらかみ)・長慶(ちょうけい)・後亀山(ごかめやま)天皇と四代続いたが(1351-1352一時合体)、1392南北朝合体で消滅。
●分国法(ぶんこくほう)
戦国大名が領国支配のために制定した法令。以下が主要なもの。
制定年代 |
分国法名(別名) |
条数 |
制定者(本拠) |
---|---|---|---|
15〜16C |
大内氏掟書(大内家壁書) |
? |
大内政弘・義興(周防山口) |
15〜16C |
相良氏法度(相良家法度) |
41 |
相良為続・晴広(肥後人吉) |
15C後半 |
朝倉孝景条々 |
17 |
朝倉孝景(越前一乗谷) |
? |
早雲寺殿二十一箇条 |
21 |
北条早雲(相模小田原) |
1526 |
今川仮名目録 |
33 |
今川氏親(駿河府中) |
1533 |
今川仮名目録追加 |
21 |
今川義元(駿河府中) |
1536 |
塵芥集 |
171 |
伊達稙宗(出羽米沢) |
1547 |
甲州法度之次第(信玄家法) |
26 |
武田信玄(甲斐府中) |
1556 |
結城氏新法度(結城家法度) |
104 |
結城政勝(下総結城) |
156? |
新加制式 |
22 |
三好長治(阿波勝端) |
1567 |
六角氏式目(義治式目) |
67 |
六角義治(近江観音寺) |
1596 |
長宗我部元親百箇条 |
100 |
長宗我部元親(土佐大高) |
※ 「甲州法度之次第」「結城氏新法度」の条数は、初制定時のもの。
●平家物語(へいけものがたり)
軍記物語の一。鎌倉時代成立。信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)?著。
平家一門の興亡を描く。琵琶法師(びわほうし)によって語られ。広められた。
●北条早雲(ほうじょうそううん)=伊勢宗瑞(いせそうずい)←伊勢新九郎(しんくろう)
(1432-1519) 武将。後北条氏の祖。名は盛時(もりとき)・長氏(ながうじ)・氏茂(うじしげ)などと伝えられるが確証はない。将軍家に仕え、今川氏の内紛を解決して1487駿河興国寺(こうこくじ)城主になり、1491or1493堀越公方(ほりこしくぼう)・足利茶々丸(ちゃちゃまる)を滅ぼして伊豆を攻略、1495大森藤頼(おおもりふじより)から相模小田原(おだわら)城を奪い、1516三浦義同(みうらよしあつ)・義意(よしおき)父子を討って相模を統一、検地を行って貫高制を整備、分国法「早雲寺殿二十一箇条」を制定した。
●北朝(ほくちょう)
(1336-1351,1352-1392) 1336足利尊氏が後醍醐天皇を京都から追い、持明院統(じみょういんとう)の光明(こうみょう)天皇に立てさせた朝廷。光厳(こうごん)上皇・光明・崇光(すこう)・後光厳(ごこうごん)・後円融(ごえんゆう)・後小松(ごこまつ)天皇と五代続いたが(1351-1352一時合体)、1392南北朝合体で解消。
●前田利家(まえだとしいえ)
(1538-1599) 武将。五大老の一。織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)の名代として能登七尾(ななお)城主となり、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで豊臣秀吉に属して加賀金沢(かなざわ)城主となり、秀吉死後は遺児秀頼の後見役を務めた。
●源義家(みなもとのよしいえ)=八幡太郎(はちまんたろう)
(1039-1106) 武将。源頼義(よりよし)の子。1051-1062前九年の役(ぜんくねんのえき。前九年合戦)に従軍し、1063出羽守に、1083陸奥守・鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)に就任、1083-1087後三年の役(ごさんねんのえき。後三年合戦)で清原清衡(きよはらのきよひら。後の藤原清衡)を助け、清原家衡(いえひら)・清原武衡(たけひら)を討ち、武家の棟梁(とうりょう)の地位を確立、1098院の昇殿を許された。
●室町幕府(むろまちばくふ)・足利(あしかが)幕府
(1336-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。
●寄親・寄子(よりおや・よりこ)
戦国大名が編制した軍事組織。有力家臣団を寄親とし、在地豪族などを寄子として統括させた。
●楽市(らくいち)
戦後大名が行った商業活性政策。市場税を廃止し、自由に市を開くことができるようにした。
●六国史(りっこくし)
奈良〜平安時代にかけて編修された正史のこと。以下六つ。
書名 (よみかた) |
成立年 | 巻数 | (編修命令者) 編集者 |
編集範囲 |
日本書紀 (にほんしょき) |
養老四年 720 |
30+1 | (天武天皇・元明天皇ら) 舎人親王・紀清人・三宅藤麻呂ら |
神代〜持統 (-697) |
続日本紀 (しょくにほんぎ) |
延暦十六年 797 |
40 | (桓武天皇) 菅野真道・藤原継縄 ・秋篠安人・中科巨都雄ら |
文武〜桓武 (697-791) |
日本後紀 (にほんこうき) |
承和七年 840 |
40 | (嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇) 藤原緒嗣・藤原冬嗣・藤原貞嗣 ・良岑安世・源常・清原夏野ら |
桓武〜淳和 (792-833) |
続日本後紀 (しょくにほんこうき) |
貞観十一年 869 |
20 | (文徳天皇) 藤原良房・春澄善縄 ・伴善男・安野豊道ら |
仁 明 (833-850) |
日本文徳天皇実録 (にほんもんとくてんのうじつろく) |
元慶三年 879 |
10 | (清和天皇・陽成天皇) 藤原基経・南淵年名・菅原是善 ・大江音人・善淵愛成・都良香 ・島田良臣ら |
文 徳 (850-858) |
日本三代実録 (にほんさんだいじつろく) |
延喜元年 901 |
50 | (宇多天皇・醍醐天皇) 源能有・菅原道真・藤原時平 ・大蔵善行・三統理平ら |
清和〜光孝 (858-887) |
※日本書紀の+1は系譜一巻(現存せず)
●臨済宗(りんざいしゅう)
禅宗(ぜんしゅう)の一派。開祖は唐の臨済義玄(りんざいぎげん)。日本には1191明庵栄西(みょうあんえいさい)が初めて伝えた。
●連歌(れんが)
上の句と下の句を交互に詠み合う文芸。室町時代が最盛期。代表的な連歌集は、二条良基(にじょうよしもと)の『菟玖波集(つくばしゅう)』・宗祗(そうぎ)の『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』、山崎宗鑑(やまざきそうかん)の『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』。