2.暴君? | ||||||||||||||
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兄二人は叔父・豊臣秀吉の養子になったが、オレは叔父の異父弟(または同母弟)・豊臣秀長(ひでなが。羽柴秀長)の養子になった。
つまり、「叔父」秀吉は、「伯父」にもなったわけである。
養父は若い頃から伯父(叔父)にしたがって各地を転戦、播磨攻め・紀伊攻め・四国平定・九州平定などで活躍、権大納言(ごんだいなごん)に昇り、大和・紀伊・和泉と伊賀の一分を領有、大和郡山(こおりやま。奈良県大和郡山市)城主となった。
「内々の儀は利休、公儀の事は秀長へ」
そうである。
養父は豊臣政権の政を担っていたのである。
が、天正十九年(1591)正月、養父は伯父(叔父)に先んじて病死してしまった。享年五十二。
養父が没したとき、オレはまだ十四歳であったが、遺領のうち大和・紀伊を譲られ、大和郡山城主になった。
後見人は紀伊和歌山(わかやま。和歌山県和歌山市)城代・桑山重晴(くわやましげはる)と、世渡り上手天下一品・藤堂高虎(とうどうたかとら)。
天正二十年(1592)正月、オレは従三位・権中納言になった。
また、この年から始まった文禄の役では、兵一万人を率いて肥前名護屋(なごや。佐賀県唐津市)に在陣、手際よく普請役を務めた。
こんなオレには暴君説がある。
長兄・秀次も暴君とされ、「殺生関白」と呼ばれたが、これらは徳川の陰謀か、後世の人々の妄想の産物である。
確かにオレたち兄弟はそろって粗暴ではあったが、暴君まではいかないであろう。オレには妊婦の腹を割いて胎児を取り出して喜んでいたという逸話まであるが、とんでもないことである。
この手の話は古くは伝二十五代大王・武烈(ぶれつ)天皇にあり、平将門の乱平定者・平貞盛や、武田信玄の父・武田信虎(のぶとら)らにもあるので、暴君話の定番とされていただけであろう(「揉消味」参照)。
オレはただ、人一倍武芸に励んでいただけである。
人から見ると、それが乱暴者のように見えてしまっていたのであろう。
オレの実父・三好吉房がよく言っていた。
「我が家は根っからの武家ではない。成り上がり者だ。そのためどうしても武芸に励み、達人になっておかなければならない。そうしなければ、『やっぱりあれは元農民だ』とバカにされるだけだ。分かったな。武芸に励め!お前は武士以上の武士になるのだ!」
「はい!」