1.第一議会 〜 第一次山県有朋内閣!

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第四十三回衆議院議員総選挙
1.第一議会 〜 第一次山県有朋内閣
2.第二議会 〜 第一次松方正義内閣
3.第二回衆議院議員総選挙 〜 選挙大干渉

 衆議院は国民から選出された議員によって構成される立法機関である。
 参議院とともに国会を構成する一院であり、戦前は貴族院とともに帝国議会を構成していた。

 衆議院が誕生したのは、明治二十二年(1889)二月十一日、大日本帝国憲法の発布によってである。
 同日、衆議院議員選挙法が公布され、直接国税
(地租と所得税)十五円以上を収める二十五歳以上のお金持ち男性にのみ、選挙権が与えられた。
 議員定数は三百名。全国
(北海道・沖縄・小笠原諸島を除く)を二百五十七区に分けた原則小選挙区制で、投票するには記名捺印(なついん)が必要であった。

 翌明治二十三年(1890)七月一日、第一回衆議院議員総選挙が行われた。
 有権者は四十五万人、当時の内地人口のわずか一・一パーセントであったが、投票率は実に九十三・七パーセントに達した。第一議会勢力図

 第一回帝国議会は、十一月二十五日午前十時に召集、定員三百名のうち二百九十人が登院し、初代議長に立憲自由党の中島信行(なかじまのぶゆき)を、初代副議長に大成会の津田真道(つだまみち)を選出した。
 第一議会における政党別の勢力は右の通りである。
 御覧のように民党吏党を上回っていたため、政府法案は民党の賛同を得なければ通らなかったのである。

●山県有朋内閣(第一次)閣僚 
(1891.2/)

大臣名 氏 名  備 考
総 理 山県有朋 長州・伯爵・陸軍中将
外 務 青木周蔵 長州・子爵
内 務 西郷従道 薩摩・伯爵・陸軍中将
大 蔵 松方正義 薩摩・伯爵
陸 軍 大山 巌 薩摩・伯爵・陸軍中将
海 軍 樺山資紀 薩摩・子爵・海軍中将
法 務 大木喬任 肥前・伯爵・枢密院議長
文 部 榎本武揚 幕臣・子爵・海軍中将
農商務 陸奥宗光 紀伊
逓 信 後藤象二郎 土佐・伯爵
官 長 周布公平 長州
法制局長官 井上 毅 肥後

 十二月、首相が施政方針演説を行った。
 時の首相は長州軍閥
(ぐんばつ)のドン・山県有朋
 幕末には高杉晋作
(「攘夷味」参照)の下、奇兵隊を率いて各所を転戦、維新後は大村益次郎の後を受けて日本陸軍の基礎を築いた生粋の将軍である。

 山県には、山県の描く大日本帝国の未来像があった。
「大日本帝国は、欧米列強に負けない東洋一の軍事大国になるべきである。もしなれなければ、帝国は清国やインドの轍
(てつ)を踏むことになるであろう」

 演説の中で山県は、列強(特にロシア)の脅威に対するために利益線(朝鮮を指す)の確保を主張、その分軍費を上乗せした一般会計歳出額八千三百三十二万円という軍拡予算案を提出した。

 が、時の衆院予算委員長・大江卓(おおえたく。立憲自由党)は「民力休養(減税)・政費節減(予算削減)」を掲げる民党同志の意見を尊重、軍艦建造費など八百万円以上を削減する大幅な軍縮予算案を査定し、これを可決させてしまった。

 山県は怒り狂った。
民党のヤツらは未だに何も分かっておらん! 何が自由だ! 日本は列強にねらわれているのだぞ! 今は何より国防が先決! そのためには多少の我慢や犠牲は必要なのだ! 他国に侵略されては、自由も何もないではないか! クソッ! だから議会など必要なかったのだっ!」

 山県は内務卿(ないむきょう。内相の前身)・内相時代、新聞紙条例を改正し、保安条例を制定するなどして徹底的に民権運動家を弾圧、福島事件高田事件群馬事件加波山事件秩父事件大阪事件など次々起こった自由党員らの蜂起を容赦なく鎮圧し、河野広中大井憲太郎・磯山清兵衛(いそやませいべえ)らを逮捕、田代栄助(たしろえいすけ)・村上泰治(むらかみたいじ)らを死に追いやっていた。

 民党の人々はうわさした。
山県が困っている。いい気味だ。あの世に逝
(い)った同志たちもさぞや喜んでいることだろう」
「いや。山県は今度もまた怒り狂って血の雨を降らせるかもしれないぞ」
「議会を解散させるかもな」

 だが山県は、欧米列強も注目しているアジアで最初の議会を解散させることをためらった。
「ようは民党の一部を取り込んでしまえばすむことだ」
 山県立憲自由党に近い農商務相
(今の農水相+経産相)陸奥宗光、逓信相・後藤象二郎と相談、土佐派(大江・片岡健吉・竹内綱・林有造・植木枝盛など立憲自由党の主力メンバー)の切り崩しを図ったのである。
「大江君たち、お願いだ。なんとか政府案に賛同してくれないかね。ねえ〜」
「そうだねえ。条件次第だねえ」
 話し合いの結果
(何か「いいもの」をあげたのかもしれない)、土佐派の二十八名は立憲自由党を裏切って政府案に賛同、修正案を作らせ、わずか二票差で軍拡予算案を可決させた。明治二十四年(1891)二月二十日のことである。

 残された立憲自由党の人々は、憤懣(ふんまん)やるせなかった。
 中でも自由民権運動のカリスマ・中江兆民は激高した。
衆議院は腰抜けだ! 無血虫の陳列場だ! 辞みなん! 辞みなん!」
 と、翌二十一日に、「アルコール中毒で足元がおぼつかない」ことを理由に辞表を提出したのである。

 立憲自由党は混乱した。
 片岡健吉ら土佐派は立憲自由党を離れ、自由倶楽部
(じゆうくらぶ)を結党した。
 山県は喜んだ。
「うるさい立憲自由党はつぶれた! 解党だ! ガハハハッ!」

 ところが、立憲自由党にとっての救世主が、欧米漫遊から帰ってきた。
 日本の政党政治の基を作り上げた熱血漢・星亨である。
 は、頭数も減って落ち込んでいた立憲自由党の人々を鼓舞した。
「なさけない! 諸君には主義がないのか! みんなで一緒に自由に向かって戦うのではなかったのか!
山県につぶされていった同志たちのためにも、我々は戦い続けなければならないのだっ!」
 は、党の創始者・板垣退助を総理に復帰させて立憲自由党を再建、党名も当初の「自由党」に戻した。そして十二月までに脱党した土佐派の人々も呼び戻したのである。

 自由党の復活を目の当たりにした山県は、
「性懲りもなくよみがえりやがった」
 と、舌打ち、首相を投げ出し、後継首相に貴族院議長・伊藤博文を推したが、伊藤が、
「わしも嫌。ウラで操るのはいいけど」
 と、駄々をこねたため、松方正義のところにお鉢を回してあげた。

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