1.逆襲!細川頼之!! | ||||||||||||||
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足利義満 PROFILE | |
【生没年】 | 1358-1408 |
【別 名】 | 春王・鹿苑院・天山道義・道有 |
【出 身】 | 伊勢貞継邸(京都市左京区) |
【本 拠】 | 伊勢貞継邸→建仁寺(京都市東山区) →播磨白旗城(兵庫県上郡町) →三条坊門第(京都市中京区) →花御所(京都市上京区) →北山第(京都市北区) |
【職 業】 | 武将・公卿 |
【役 職】 | 将軍(1368-1394) ・左馬頭→参議・左中将→権大納言 →内大臣・右近衛大将 →左大臣・蔵人所別当→太政大臣ほか |
【位 階】 | 従五位下→正五位下→従四位下 →従三位→従二位→従一位 |
【 父 】 | 足利義詮 |
【 母 】 | 紀良子(善法寺通清女) |
【義 母】 | 渋川幸子 |
【 妻 】 | 日野業子・日野康子・春日局・寧福院 ・藤原慶子・藤原量子・柳原殿(加賀局) ・藤原誠子・高橋殿・宇治大清女・池尻殿 ・慶雲庵主・源春子・一条局・坊門局ら |
【オトコ】 | 亀寿丸(六角満高)・世阿弥・御賀丸 ・慶御丸・慶音丸・慶賀丸・寿王丸 ・日光丸・万千代丸・菊寿丸・永賀丸ら |
【兄 弟 】 | 千寿王・柏庭清祖・足利満詮・延用宗器 ・宝鏡寺殿(桂林昌公?)・男児某 |
【 子 】 | 女児某・友山清師(尊満)・宝幢・足利義持 ・義嗣・義教・男児某・大慈院聖久 ・大慈院聖紹・女児某・法尊・聖仙 ・法華寺尊順・女児某・虎山永隆 ・大覚寺義昭・梶井義承・摂取院主 ・光照院尊久・宝鏡殿(桂芳久公) ・本覚寺満守ら |
【墓 地】 | 相国寺(京都市上京区) |
天は二つに割れていた。
いわゆる南北朝の動乱である。
北の室町幕府もまた、二派に分裂していた。
南の吉野朝廷と戦い続けるか否かで意見が分かれていたのである。
交戦派の中心は、管領・斯波義将(しばよしまさ・よしゆき。斯波氏系図」参照)。
越前を本拠とする斯波氏のほか、山名氏(伯耆ほか)・土岐氏(美濃ほか)・大内氏(周防ほか)・渋川氏(しぶかわし。摂津)・京極氏(北近江)などがその一味であった。
和平派の中心は、前管領・細川頼之(ほそかわよりゆき。常久。「細川氏系図」参照)。
阿波を本拠とする細川氏のほか、赤松氏(播磨ほか)・一色氏(若狭ほか)・今川氏(駿河ほか)・富樫氏(とがしし。加賀)・六角氏(ろっかくし。南近江)などがその一味であった。
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現在の花の御所跡(京都市上京区)周辺 |
康暦元年・天授五年(1379)、越前等守護・斯波義将、美濃等守護・土岐頼康(ときよりやす)、北近江守護・京極高秀(きょうごくたかひで)ら交戦派はクーデターを決行した。
「南朝にこびへつらう弱腰外交の管領・細川頼之を追放しろー!」
自邸・花の御所を取り囲まれて脅された将軍・足利義満は折れるしかなかった(「足利氏系図」参照)。
こうして管領は頼之から義将に交代、頼之は領国阿波へ下向したのである。
これがいわゆる「康暦(こうりゃく)の政変」である。
しかし、頼之という男は「甘ちゃん」ではなかった。
義満が室町幕府三代将軍に就任して以来、その後見として管領として十二年間も政界の頂点に君臨していた実力者なのである。
「私は再び帰ってくる!」
頼之は政変後に伊予守護として下ってきた河野通直(こうのみちなお)を世田山(愛媛県伊予市)城に討ち取って四国全土を固めると、讃岐宇多津(うたづ。歌津。香川県宇多津町)に移り、弟で養子で畿内に残っていた細川頼元(よりもと)のパイプを通じて幕政復帰を目指した。
「待てば海路の日和(ひより)あり」
康応元年・元中六年(1389)、ついに「日和」がやって来た。
「近々、将軍・足利義満公が安芸の厳島(広島県廿日市市)に御参詣なされるそうな」
頼之は小躍りして喜んだ。
「やた!将軍は私に会いに来るのだ!」
頼之は頼元を通じて、
「私も一緒に厳島に行きたいです〜」
など、いろいろと「打ち合わせ」をしておいた。
三月四日、義満は厳島詣のため京を発した。
お供の武将は加賀守護・斯波義種(よしたね。義将の弟)、摂津守護・細川頼元、河内等守護・畠山基国(はたけやまもとくに)、九州探題・今川了俊(「今川氏系図」参照)らである。
三月六日、義満は宇多津に立ち寄り、出迎えた頼之と合流した。
「お会いしたかったです〜」
「余もじゃ。そちの管領罷免は余の本意ではなかった」
「斯波義将殿の執政っぷりはいかがでございましょうか?」
「政所の権限を強化したり、僧録を創設して禅僧を一括管理したり、ぼちぼちやってくれているが、そちが管領だった頃の比ではない」
「ありがとうございます〜」
「そちはそちを追放した義将が憎いか?」
頼之は笑って否定した。
「いいえ。義将は管領家斯波家の当主として反乱軍の盟主として祭り上げられただけで乱の張本人ではありませんから」
「乱の張本人とは、美濃の土岐頼康(「土岐氏系図」参照)と伯耆の山名時義(やまなときよし。「山名氏系図」参照)――」
「御名答!」
嘉慶元年・元中四年(1387)、土岐頼康は七十歳で没していた。
「土岐もそうですが、山名はもっと強大です。山名一族の領国は、今や山陰を中心に十一か国!日本全国六十六か国のうち六分の一が山名の領国なのです!いけません!もともと山名氏は南朝の武将じゃないですか!しかも足利の天敵・新田(にった)氏の子孫じゃないですか!ヤツラはいつ何時、南朝魂や新田魂がよみがえるか分からない危険分子なのです!このような暴力装置にたくさんの領地を与えてはなりません!ヤツラはいずれ必ず謀反を起こすことになるでしょう!」
「だからといって今は斯波派の天下じゃ。そちら細川派が戦を起こしたところで勝ち目はあるまい」
「それが、あるのです!」
「どんな手じゃ?」
頼之には自信があった。
「斯波派の一角、大内氏を切り崩すのです!」