3.謀略!足利義満!! | ||||||||||||||
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康応元年・元中六年(1389)五月四日、但馬・伯耆・備後・隠岐四か国の守護を務め、幕府では侍所所司にも任じられたことのある山名氏当主・山名時義が四十四歳で没した。
このため当主は時義の長男・山名時煕(ときひろ)が継ぎ、時義の遺領のうち、但馬・備後は時煕が、伯耆・隠岐は時義の養子・山名氏之(うじゆき。氏幸)が相続することになった(「山名氏系図」参照)。
これに異を唱えたのは、先々代当主・山名時氏(ときうじ)の四男で、丹波・和泉守護を務める山名氏清と、先代当主・山名師義(もろよし)の四男で、出雲・丹後守護を務める山名満幸(やまなみつゆき)である。
「どうして宗家の遺領を時煕と氏之の二人だけで分けてしまうのだ?」
「おかしいではないか!オレにもくれっ!」
ちなみに満幸は氏清の娘婿でもある。
山名氏の系図は複雑である。
時煕まで山名氏四代の当主は以下の通りである。
山名時氏−師義=時義−時煕
このうち、時氏と師義、時義と時煕は実の親子であるが、時義は師義の弟であり、養子になった。
満幸の不満の根源はそれであった。
「父師義はオレという実子がありながら、時義を養子にして当主にした!本来であれば、オレこそ山名の当主であり、但馬・伯耆・備後・隠岐四か国の守護だったのだ!」
氏清は満幸よりは穏健であったが、それでも納得できなかった。
「時煕と同じように氏之が二か国を継承するのもおかしい。満幸と氏之は実の兄弟なのだから、満幸にも分け前があって当然であろうし、もともと長兄(師義)と時義も兄弟なのだから、わしや次兄(義理)の家系に一か国ずつぐらい回ってきてもおかしくはないはずだ」
「そうだそうだ!幕府の裁断は不当だっ!」
山名氏の確執は、幕府にも漏れ聞こえていた。
「山名一族が相続でもめております」
細川頼之が困った顔をした。いつしか彼は京に帰ってきていた。
足利義満は吹き出した。
「そちは困った顔をしておるが、内心では喜んでいるな?」
「御名答!」
「では、そろそろ仕掛けるか」
「いえ、もう少し下ごしらえをしてからのほうがよろしいかと」
九月、義満は紀伊の高野山に詣でた。
前年春にも詣でていたが、また行きたくなったのである。
いや、これには目的があった。
紀伊は氏清の兄で満幸の叔父である山名義理(よしただ・よしまさ)の守護国であり、通り道である和泉は氏清の守護国であった。
「山名一族がもめているそうだな?」
義満に切り出され、氏清と義理は恐縮した。義理は紀伊守護のほか美作守護も務めている。
「家中の恥、お恥ずかしい限りでございまする」
「いや。今思えば幕府の裁断は間違っていた。時義の遺領の分配は、氏清と満幸と時煕と氏之、それぞれに一国ずつ与えるべきであった」
「……」
「おおっ、義理。そちを忘れていた。そちにもやらねばならなかったのう」
「私のことは結構でございまする。私はすでに二か国の太守、これ以上領地はいりません」
「つまらんのう」
義満は頼之を見た。
頼之は笑って返した。
「山名一族もみなみな義理殿のように謙虚であれば、いざこざも起こらぬものを」
頼之にとって、それでは都合が悪いのである。
氏清はこの話を満幸に話した。
満幸も驚いた。
「何!将軍さまも遺領分けに後悔されているだと!」
満幸は押しかけて時煕や氏之に迫った。
「国よこせ!将軍さまも後悔されているんだってよー!」
「そんな〜。拙者は何も聞いておりませんが」
「そーだよ!もらっちまったもんはもうボクのもんだ!」
「なんだとコノヤロー!国よこしやがれー!」
山名一族はますますもめた。
頼之は伝えた。
「山名家中は、もはや一触即発状態です」
義満はほくそ笑んだ。
「つまり、今が仕掛け時ということじゃな?」
「御名答!」