1.逃げろー!

ホーム>バックナンバー2012>1.逃げろー!

日本の選択
1.逃げろー!
2.隠れろー!
3.耐えろー!
護良親王 PROFILE
【生没年】 1308-1335
【別 名】 大塔宮・尊雲法親王・将軍宮
【本 拠】 法勝寺大塔(京都市左京区)
→延暦寺(滋賀県大津市)
→十津川(奈良県十津川村)
→金峰山寺(奈良県吉野町)
→高野山(和歌山県高野町)
→信貴山(奈良県平群町)
→東光寺(神奈川県鎌倉市)
【職 業】 皇族・僧・武将
【役 職】 梶井門主→天台座主
→征夷大将軍・兵部卿
【 父 】 後醍醐天皇
【 母 】 源親子?
【継 母】 阿野廉子ら
【兄 弟】 尊良親王・宗良親王・元選
・恒良親王・法仁親王・成良親王
・後村上天皇・世良親王・恵尊親王
・恒性・聖助親王・懐良親王
・玄円親王・満良親王・尊真
・懽子内親王・祥子内親王・用堂尼
・瓊子内親王・欣子内親王・惟子内親王
・姚子内親王ほか
【 妻 】 北畠立花姫(親房の娘)
・雛鶴姫(藤原保藤の娘)ら
【 子 】 興良親王・日叡・綴連王・華蔵姫ら
【部 下】 村上義光・赤松義祐・小寺頼季ら
【仇 敵】 北条高時・足利尊氏・足利直義ら
【墓 地】 理智光寺跡・妙法寺(鎌倉市)
【霊 地】 鎌倉宮(鎌倉市)
・石船神社(山梨県都留市)など

 俺、グリコ。
 じゃなくて、モリナガ。護良親王
 後の平成の世では、モリナガよりモリヨシと読むらしい。
 ただし、護良親王を名乗るのは少し後の話で、元弘二年(1332)現在は尊雲法親王
(そんうんほっしんのう)と名乗っている。
 そう。坊さん皇族である。
 でも、ただの坊さんじゃない。
 天台座主
(てんだいざす)という比叡山延暦寺(滋賀県大津市京都市左京区)の住職で、日本仏教界のボスなのだ。

 そうだった!自己紹介なんかしている場合じゃない!
 俺は悪いヤツラに追われているんだった!
 まあ、あっちからすれば俺のほうが悪いヤツだ。
 そう。俺はお尋ね者。
 鎌倉幕府にたてついた反逆者。

 え?具体的に何をしたかって?
 俺の父は後醍醐天皇だって言えばお分かりだろう?
(「天皇家系図」参照)
 そうだよ!正中の変元弘の変
(これから元弘の乱)だよ!
 分からない人は、「秘密味」と「窮地味」と「子供味」を御覧あれ。

 父の倒幕計画は、二度とも失敗だった。
 前回は日野資朝
(ひのすけとも)ら側近たちが処罰されただけですんだが、今回は山城笠置山(かさぎやま。京都府笠置町)で自ら兵を挙げ、あっさり落城して捕らわれてしまった。
 同時期に河内赤坂城
(あかさかじょう。大阪府千早赤阪村)楠木正成なる悪党も挙兵したが、これも落城して行方知れずになってしまった(「窮地味」参照)

 俺はというと、それ以前に比叡山で決起していた。
 鎌倉幕府に目をつけられていた父の京都脱出を助けるため、花山院師賢
(かざんいんもろかた)という父の寵臣(ちょうしん)天皇と偽り、ウソをつかせたのだ。
「朕
(ちん)は帝(みかど)である!皆の衆、朕のために戦うがいい!」
 作戦は成功した。六千もの兵が集まり、一度は幕府軍を撃退してしまった
(唐崎浜の戦)
 が、栄華は長く続かなかった。
 ぴらーん。
 いたずらな風が、ニセ天皇の輿
(こし)の御簾(みす)をめくってしまったのだ。
 結果、師賢の正体がバレてしまった。
「ゲッ!こいつ、帝なんかじゃねえ!」
「サギじゃねえか!」
「アホくさ。帰ろ帰ろっ」
 あんなにいた兵はあっという間に離散、戦えなくなった俺は、こうやって逃避行をしてるってわけだ。

 もちろん俺は一人で逃げているわけじゃない。
 赤松則祐
(あかまつそくゆう。「野合味」「赤松氏系図」参照)や小寺頼季(こでらよりすえ。木寺頼季)といった数少ない部下がいた。
 でも、今はあいにく彼らを使いに出してしまっていた。
(まずいな。俺一人か)


大きな地図で見る
現在の般若寺(奈良県奈良市)周辺

 ザッ!ザッ!ザッ!
 ヒヒーン!バウウン!
 どうやら俺の潜伏している寺は、たくさんの兵に取り囲まれたらしい。
 寺の名は般若寺
(はんにゃじ。奈良県奈良市)。南都の北、奈良坂にある古寺だ。

 俺は塀の割れ目から外をのぞいてみた。
 眼光鋭い兵五百騎ほどが、びっしりと群れていた。
(ダメだこりゃ。これじゃあ赤松や小寺らがいたって勝ち目はない)
 俺は苦笑した。
(それにしても、俺一人を召し捕るのに、この兵数は大げさだぜ)
 どうやら追手は俺が武芸の達人だということを知っているようだ。
 俺は延暦寺にいた頃、経を読まずに武芸の鍛錬ばかりしていて、「不思議の座主」と呼ばれていたものだ。
 しかし、今の俺は武器を持っていない。短刀ぐらいしかない。こんなもので雲霞
(うんか)の敵と戦えるはずがなかった。
 だからといって投降しても処刑される運命であろう。

 寺の外で首領らしき男が声を張り上げた。
「大塔宮
(だいとうのみや・おおとうのみや)!ここにいることは分かっている!出てこいっ!」
 大塔宮とは俺のことだ。俺は延暦寺梶井門跡の大塔に入室してからそう呼ばれるようになった。
「申し遅れた。わしは興福寺一乗院
(いちじょういん。奈良県奈良市)の候人(こうにん。門跡配下の在家僧)・好専(こうせん)という者だ!この寺は完全に包囲した!貴様に逃げ場はない!おとなしく出てこなければ、いっせいに踏み込んでふん捕まえるぞ!」
 万事休すである。
 それでも、ここで死ぬわけにはいかなかった。

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system