本文1.新羅征討伝説1
〜 仲哀天皇崩御

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日本最初の紙幣の顔・神功皇后
本文1.新羅征討伝説1
検証1.仲哀天皇は消されたか?
本文2.新羅征討伝説2
検証2.新羅征討を行ったのは?
 

 太古の天皇は、ウソみたいに長寿である。
 百歳以上生きた天皇も、右表に挙げたようにゾロゾロいる。

百歳以上生きた天皇
代数 天皇名 在位期間 生没年 享年
伝1代 神武天皇 前660-前585 前771-前585 127歳
伝5代 孝昭天皇 前475-前393 前506-前393 114歳
伝6代 孝安天皇 前392-前291 前427-前291 137歳
伝7代 孝霊天皇 前290-前215 前342-前215 128歳
伝8代 孝元天皇 前214-前158 前273-前158 116歳
伝9代 開化天皇 前158-前 98 前208-前 98 111歳
伝10代 崇神天皇 前 97-前 30 前148-前 30 119歳
伝11代 垂仁天皇 前29-70 前69-70 139歳
伝12代 景行天皇 71-130 前13-130 143歳
伝13代 成務天皇 131-190  84-190 107歳
伝15代 応神天皇 270-310 200-310 111歳
伝16代 仁徳天皇 313-399 257-399 143歳

 神功皇后も、長寿であった。
 神功皇后は、成務天皇四十年(170)年に生誕し、神功皇后六十九年(269)に没したので、計ったようにジャスト百歳
(数え年)である。
 諱名
(いみな)は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)というが、以後、神功皇后で統一する。

 父は気長宿祢王(おきながすくねおう・おきながのすくねのおおきみ。息長宿祢王)。伝九代天皇・開化天皇(かいかてんのう)の曽孫である。
 母は葛城高額媛
(かつらぎたかぬかひめ)新羅の王子・天日槍(天日矛。あまのひぼこ)の子孫である。

 神功皇后は、幼児から聡明で、極めて美人であった。
 そのため父・気長宿祢王が、
「本当におれの子か?」
 と、いぶかしがるほどであったという。
 また、彼女は釣りの名人でもあった。
 飯粒でアユを釣ったり、酒をまいてタイを捕ったことはよく知られている。

 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)二年(193)一月、神功皇后は二十四歳で仲哀天皇の皇后になった。
 仲哀天皇も容姿端麗で、身丈十尺というから、身長は約三メートル。
 仲哀天皇は、父・日本武尊
(やまとたけるのみこと)の供養をするために、白鳥をたくさん飼っていた。

「白鳥が好きなのねー」
 すると越
(こし。北陸)の太守が、白鳥を捕まえて仲哀天皇に献上してきた。
「ありがたいのう」
 仲哀天皇は喜んだが、彼の異母弟・葦髪蒲見別王
(あしかみのかみわけおう)が、
「白鳥だって、焼いたら黒鳥になるだろう」
 と、変なことをつぶやいたので、
「貴様のほうが黒くなれ!」
 と、焼き殺してやった。

 翌二月、仲哀天皇は、神功皇后たちを引き連れて越の角鹿(つるが。敦賀。福井県敦賀市)へ行った。
 みんなで白鳥を見に行ったのであろうか?

 三月、仲哀天皇は熊襲(くまそ。南九州の住人)が貢物を献上しなくなったため、これを討つことにした。
 仲哀天皇八年(199)一月に筑紫(つくし。九州)に入り、橿日宮(かしいのみや。香椎宮。福岡市東区)に居した。

大王様が参られた!」
 北九州の豪族たちは戦わずに降参し、岡
(おか。福岡県北九州市中間市付近)県主の先祖・熊鰐(わに)という豪族などは、鳥好き仲哀天皇と魚好き神功皇后にこびて、鳥池と魚池まで造って接待したという。

 仲哀天皇は熊襲征討を占うため、高台で琴を弾き、神がかりを行った。
 神は、神功皇后にとりつき、その口を借りてしゃべり始めた。
『熊襲は貧乏な国である! そんな小国を攻めて何になろう! それよりも、海の向こうに見える国、新羅を攻めよ! 新羅は富国ぞ! 金銀財宝が山とあるぞよ! 攻めれば新羅は戦わずして降伏し、熊襲もすぐになびくであろう!』

 仲哀天皇は海を見た。
 海はどこまでも果てしなく青く、どこにも陸は見当たらなかった。
「海の向こうに国が見えるだとぉ。何もないじゃないか! 高台から見ても何も見えないのに、そんなものあるはずがない! どこの神がついたか知らないが、ウソ付きな神だな」
 神は反論した。
『ウソではない! ふん。我が言を信じなければいい! 新羅はこの皇后が身ごもっている子が平定するであろう!』
 仲哀天皇は不機嫌になった。琴を押しのけて、弾くのを止めてしまった。
 側近・武内宿祢
(たけしうちのすくね・たけのうちのすくね)が勧めた。
「お弾き続けくださいませ」
 仕方なく、仲哀天皇は琴を弾き続けた。

 しばらくして、琴の音は聞こえなくなった。
「どうなさいました?」
 神功皇后が声をかけても返事がない。
 武内宿祢が火をともしてみたところ、仲哀天皇は既に事切れていた。
大王は、お隠れなさいました」
 仲哀九年(200)二月のことだという。享年五十二歳。

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