検証1.仲哀天皇は消されたか? | ||||||||||||||
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ここでここまでの検証をしてみたい。
まず、何と言っても不自然なのは、歴代天皇の年齢と在位期間であろう。
仲哀天皇をのぞく伝五〜十六代天皇すべてが百歳以上の長寿ということは信じられないし、在位九年の割に五十二歳まで生きた仲哀天皇の年齢も、実際はもっと少なかったように思えてならない。
しかも『日本書紀』仲哀紀は、仲哀天皇二年六月以降、八年一月まで全く記事がない。これは記事がないのではなく、故意に在位期間を伸ばしたことによるものであろう。
そういったことなどから推測すると、実際の仲哀天皇の即位は四世紀であり、在位期間は三〜四年であり、彼は十〜三十代で没したのではあるまいか?
しかも、仲哀天皇の死は突然である。
『古事記』では琴を弾いている最中に亡くなり、『日本書紀』では神の言葉にそむいて熊襲を攻めたたたりで発病、その翌日に急死したとされている。
このことは、彼が不自然な死に方をしたことを物語っているものであろう。
では、「不自然な死」とは、なにか?
すぐに思い付くのは「暗殺」である。
仲哀天皇は、何者かに殺されたのだと考えるのが順当であろう。
では、なぜ殺されたのか?
これは時期から見て、新羅征討に反対したからであろう。
では、誰に殺されたのか?
私は、先に白鳥を送ってきた北陸地方の有力者「越の太守」ではないかとにらんでいる。
仲哀天皇は、なぜか「越の太守」を恐れていた。
仲哀天皇と神功皇后は、西征の前にも、まるでおうかがいを立てるかのように「越の太守」に会いにいっている。
「越の太守」は神功皇后を通じて仲哀天皇に新羅征討を勧めたが、反対されたため彼を殺し、新羅征討を行ったのではあるまいか?
これで私が先のジンクスから神功皇后を外した理由がお分かりであろう。
新羅征討を行ったのは神功皇后ではなく、「越の太守」であったからこそ、外しておいたわけである。
では、「越の太守」は二代のうちに破滅してしまったのであろうか?
答えはノーである。
なぜなら彼は、このジンクスに入る資格がない人物であったからである。
どういうことなのか?
いったい「越の太守」とは何者なのであろうか?
その前に『古事記』『日本書紀』にある新羅征討の続きを紹介したい。