3.お金持ち美女なんかに負けない | ||||||||||||||
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雄朝津間稚子宿祢の三人の兄のうち、二人は大王になった。
去来穂別皇子は履中天皇(りちゅうてんのう)に、多遅比瑞歯別皇子は反正天皇(はんぜいてんのう)になった。
住吉仲皇子だけはなれなかった。
去来穂別皇子の妃・葛城黒媛(かずらき・かつらぎのくろひめ)に手やイロイロ出してしまったため、即位することはかなわなかった。
黒媛は強烈美女であった。
古代最初の最強氏族・葛城氏の出で、時の当主・葛城葦田(あしだ)の娘でもあった。
武内宿祢(たけしうちのすくね・たけのうちのすくね。「2004年12月号 紙幣味」参照)の子・羽田八代(はたのやしろ)の娘という説もあるが、私はこの二人は同一人物とみているので、どちらでもいいわけである。また、後に登場する葛城玉田(たまだ)も同一人物とみている。
【葛城氏略系図】(赤字は女性。重要人物のみ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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羽田八代≒葛城葦田≒葛城玉田
「黒媛ぇ〜」
履中天皇は黒媛にメロメロであった。
結果、草香幡梭皇女は見向きもされなくなっていた。
「ふん、なによっ」
履中天皇の子女は四人いるが、うち幡梭皇女が産んだ子は中蒂姫皇女(なかしひめおうじょ。「2003年8月号 非行味」参照)だけで、磐坂市辺押磐皇子(いわさかのいちへのおしはおうじ)・御馬皇子(みまおうじ)・青海皇女(あおみおうじょ)の三人は黒媛の所生であった。
忍坂大中姫は姉の不幸を笑った。
「フッ。前はあんなに愛し合っていたのにね」
稚子宿祢は相変わらず大中姫に「ほの字」であった。
木梨軽皇子(きなしのかるのおうじ)・穴穂皇子(あなほおうじ。後の安康天皇。「2003年8月号 非行味」参照)・大泊瀬幼武皇子(おおはつせわかたけおうじ。後の雄略天皇。「2002年10月号 日朝味」参照)など、彼の九人の子女はすべて彼女の所生であった。
大中姫は黒媛が大っ嫌いであった。
「どいて、大中姫。私の通る道をふさがないで。早くして! なんてとろいの!
夫がとろいと移るのかしら。ホーッホッホッホ!」
「ムカーッ!」
ムカついても反抗はできなかった。
何しろ相手は今をときめくお妃さまである。おまけに実家は大王家をもしのぐ大金持ちなのである。
「ホーッホッホホホッ!」
大中姫は、お高くとまりながら究極のセレブ笑いをまき散らす黒媛をにらみつけて心に誓った。
(覚えてらっしゃい。色香はじきに衰えるものよ。そしてカネは一瞬にして消え去ってしまうものよっ。ホーッホッホ!)