2.おさな妻 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2022>令和四年9月号(通算251号)白河味 嘉保の強訴2.おさな妻
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白河上皇の中宮(ちゅうぐう。皇后)・藤原賢子は天皇在位中の応徳元年(1084)九月二十二日に二十八歳で死んだ。
「賢子ぉ〜!」
白河上皇は嘆き悲しんだが、冷たくなったものはどうしようもなかった。
しかし、彼女には忘れ形見がいた。
テイ子内親王(ていしないしんのう。テイは女編に是)、後の郁芳門院である。
(賢子に似ている……)
郁芳門院は日増しに美しく成長した。
(賢子そっくりだ……)
白河上皇は辛抱たまらなくなってきた。
(いや、これはもう賢子の生まれ変わりだ……)
寛治五年(1091)、白河上皇は幼い息子の堀河天皇を呼んだ。
「話がある」
「なんでしょうか?」
「おまえのお姉ちゃんのことだ」
「ねーちゃんがなに?」
「今日からおまえのお姉ちゃんは、おまえのお母さんになった」
「え?」
「難しい言葉でいうと『准母』という」
「はあ」
「同時に中宮にもなった」
「テイオーのヨメってことだね?」
「ああ」
「だれの?」
「誰でしょう?」
「?」
白河上皇と郁芳門院は仲が良すぎた。
内ではいつも一緒で、外へも同じ牛車でしか出かけなかったという。