4.夜霧の訪問者 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2022>令和四年9月号(通算251号)白河味 嘉保の強訴4.夜霧の訪問者
|
しくしく。しくしく。
雨の音かと思ったが、そうではなかった。
しくしく。しくしく。
郁芳門院が泣いているのであった。
「どうした?」
白河上皇が聞くと、郁芳門院は答える代わりに歌を口にした。
「恋ひわびてながむる空のうき雲や我が下もえの煙なるらむ」
「周防内侍(すおうのないし)か」
「そう」
「その歌がどうかした?」
「……。うち、恋をしたかったな」
「え?」
「何でもない」
「何だよ」
「誰か来た」
「誰も来ないよ」
「誰か外にいる」
「いないよ」
「なんか、ジメッとしている」
「夜霧だよ」
「夜霧の中に誰かいる」
「いないって」
「ほら、うちを迎えに来た」
「来ないって」
「うわっ! うちの好み……」
「え?」
「お父さま、さよなら……」
「何を言っているんだ?」
「……」
「なんか言えよ」
「……」
「どうした?」
「……」
「眠ったのか?」
「……」
「おいっ! 目を覚ませよっ!!」
「……」
「眠っているだけなんだろ?」
「……」
「おいって! 冗談だろ!? 眠っているだけなら、息ぐらいしろよーっ!!」
六条内裏(ろくじょうのだいり。六条院)で郁芳門院はそのまま二度と目を覚まさなかった。
時に嘉保三年(1096)八月七日。享年二十一。
「まだ若すぎるのに、どうして死んじゃったんだ? しかも、朕(ちん)にとって最愛の女が!」
白河上皇は訳がわからなかった。
「――まさかこれが神輿に矢を放ったバチだとでもいうのか?」
八月九日、白河上皇は出家して白河法皇となった。
亡くなった郁芳門院を供養するため六条内裏を持仏堂にした。