5.歳 月 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2022>令和四年9月号(通算251号)白河味 嘉保の強訴5.歳月
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嘉保三年(1096)九月、奈良で大火が起こり、興福寺が炎上した。
十一月には京や奈良で大地震が発生し、大極殿・興福寺・薬師寺などが倒壊した。
白河法皇は不審がった。
「これも神輿に矢を放ったバチだというのか?」
永長二年(1097)一月、今度は京で大火が起こり、因幡堂(いなばどう。平等寺。京都市下京区)などが焼亡した。
八月、白河法皇は亡くなった郁芳門院のために醍醐寺(だいごじ。京都市伏見区)に無量光院を建立した。
承徳二年(1098)一月、またしても京で大火が起こり、六月には鴨川が氾濫して洪水になった。
「これもバチだというのかー!」
承徳三年(1099)一月、またまた京や奈良で大地震が発生し、建て直したばかりの興福寺西金堂が損壊した。
「どうして興福寺ばっか壊れるんだ?」
関白・藤原師通は不思議がったが、心当たりがあった。
「私の氏寺だからですかね?」
「だろうな」
六月二十八日、ついに決定的に出来事が起こった。
ついさっきまでピンピン仕事していた師通が、突然急死してしまったのである。享年三十八。
白河法皇は確信した。降参した。開き直った。
「はいはい、バチだっていいたいんでしょ? 反省しておわびすればいいんでしょっ?
このとおり、朕が全部悪うございましたぁー!」
七月二十五日に神の許しを乞うために非常赦を行ったのである。
そして康和二年(1100)九月には、神輿を射た張本人・源頼治を佐渡(土佐とも)に配流してしまった。
「はいはい、悪いことをしたヤツは、このとおり処罰しましたよーん」
この嘉保の強訴の時の心的外傷(トラウマ)が、
「賀茂川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師、この三つが朕の心に従わざるものなり」
という後世に伝わる「三不如意」の迷言になったという(「富豪味」参照)。
[2022年8月末日執筆]
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