3.小木江城の戦 | ||||||||||||||
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元亀元年(1570)十一月、長島一向一揆は突如大挙して渡河、織田信興の守る尾張小木江城を攻囲した。
ワー!ワー!
群がる歓声を聞いて、信興は憤った。
「何てことだ……。私たちは仲良しのはずではなかったのか……」
「殿。一揆の者たちは顕如にたぶらかされているのです。大丈夫です。もうじき桑名(くわな。三重県桑名市)から滝川一益(たきがわかずます)殿が援軍として駆けつけてきます」
「何を申す!たとえ滝川が来たとしても一揆相手に戦えるような兵力にはならない!どけっ!一揆の者たちと話し合ってくる!」
「ダメです!危険です!一揆の者どもは殺気立っています!」
「私のできることは勝ち目のない戦いをすることではない!いかにして一揆から尾張を守るかだ!現状では、話し合う以外に手はないではないか!」
「しっ、しかし……」
「案ずるな。もし私が死ねば、兄上によって長島一揆も皆殺しにされるということを、とくと言い聞かせて来る!言って聞かなければ戦うのみだ!お前たちは私の代わりに薬師仏に祈っていよっ!」
「ははーっ」
「長島一向一揆蜂起!尾張へ侵攻ーっ!」
この報は、石山本願寺救援のため挙兵した朝倉・浅井連合軍を比叡山に攻囲していた織田信長のところにも届けられた。
「まずい!信興が危うい!」
信長はあせった。
「撤退する!」
馬廻衆(うままわりしゅう)・池田恒興(いけだつねおき。「池田氏系図」参照)が止めた。
「今敵に背中を見せれば、お味方大敗走は必定!」
「ならば和平じゃ!朝倉と浅井と延暦寺に和平を提案せいっ!」
十二月十四日、信長は朝倉・浅井連合軍と講和、大雪の中を無理やり行軍して十七日に岐阜城に帰ったが、その時すでに信興はこの世の人ではなくなっていた。
生き残った信興の家臣が登城して泣いた。
「上様〜。まことに面目次第もございません〜」
「信興の最期は?」
「はい。我が殿は去る十一月二十一日、六日六晩戦ったあげく、『一揆の手にかかるは無念である』と、櫓(やぐら)に上られ、お見事に切腹なさいました」
「ウソであろう!」
あっさり信長に見破られ、家臣は号泣しながら本当のことを明かした。
「ううう……。殿は……、殿は……、一揆の者に討ち取られました……。殿は最後の最後まで、長島の人々のことを信じておりました……。『話せば分かる』と言われて、自分から城を出ていかれました……。神も仏も信じておりました……。上様を初め、みんなの御無事を、こちらの薬師仏に、一心に祈り続けておりました……」
家臣は震える手で信興の薬師仏を差し出した。
信長は、それを握り締めて慟哭(どうこく)した。
「うわああーーー!何が神だっ!何が仏だっ!神仏に霊力などあろうはずがないっ!もしあれば、誰が善で誰が悪なことぐらい分かるはずではないかーっ!明確に判別できるはずではないかーっ!おのれ!おのれ!おのれっ!余は許さぬっ!許してなるものかーっ!長島一向一揆もっ、石山本願寺もっ、余を邪魔した延暦寺もっ、朝倉浅井もっ、この世の中に肉一片、骨一本、血一滴、髪の毛一筋残らぬほどに誅滅(ちゅうめつ)してくれるわーっっっ!!」
(「暴力味」へつづく)
[2011年2月末日執筆]
参考文献はコチラ
※ 織田信興の薬師仏は、彼のもう一つの持城・鯏浦(うぐいうら。愛知県弥富市)城跡に祭られ、同地に建てられた薬師寺の由来になったという。