56.総理味 基礎用語集

悪党(あくとう)
 一般的には悪いヤツのこと。狭義には鎌倉〜南北朝時代に領主や幕府の支配に反抗し、荘園を侵したり、年貢を治めなかったり奪ったりしていた集団。

足利尊氏(あしかがたかうじ)←足利高氏(たかうじ)
 (1305-1358) 武将。室町幕府初代将軍(在職1338-1358)。貞氏(さだうじ)の子。1331元弘(げんこう)の変後、鎌倉幕府を裏切って後醍醐天皇(ごだいごてんのう)につき、1333六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻略、建武(けんむ)の親政(しんせい)に参加するが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に離脱、1336湊川(みなとがわ)の戦で新田義貞(にったよしさだ)・楠木正成(くすのきまさしげ)を破り、光明(こうみょう)天皇に北朝を立てさせ、建武式目(けんむしきもく)を制定して室町幕府を開府、後醍醐天皇の開いた南朝と戦い、1339後醍醐天皇没後は夢窓疎石(むそうそせき)の勧めで弟・足利直義(ただよし)と天竜寺(てんりゅうじ)を創建、諸国に安国寺(あんこくじ)・利生塔(りしょうとう)を建て、1350-1352観応(かんのう・かんおう)の擾乱(じょうらん)で執事・高師直(こうのもろなお)とともに直義と交戦した。

天照大神(あまてらすおおみかみ)
 (?-?) 太陽神。皇室の祖神。伊勢神宮内宮などの祭神。伊弉諾尊(いざなぎのみこと。伊邪那岐命)と伊弉冉尊(いざなみのみこと。伊邪那美命)の子(または伊弉諾尊だけの子)。

新井白石(あらいはくせき)
 (1657-1725) 儒学者(朱子学)・政治家。木下順庵(きのしたじゅんあん)に師事し、徳川家宣(とくがわいえのぶ。綱豊)・徳川家継(いえつぐ)を補佐、1710武家諸法度(ぶけしょはっと)改正・閑院宮家(かんいんのみやけ)の創立・1711朝鮮通信使の待遇簡素化・1714正徳(しょうとく)金銀改鋳・1715海舶互市新例(かいはくごししんれい。正徳新令・長崎新令)発令など正徳の治(1709-1716)を行い、『読史余論(どくしよろん)』『西洋紀聞(せいようきぶん)』『折たく柴の記』『采覧異言(さいらんいげん)』『古史通』『藩翰譜(はんかんふ)』などを著した。

伊勢神宮(いせじんぐう)=神宮=大神宮=皇大神宮(こうだいじんぐう。内宮)+豊受大神宮(とようけだいじんぐう。外宮)
 三重県伊勢市所在。皇室の祖神。祭神は内宮は太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)、外宮は穀物神・豊受大神(とようけのおおかみ)。建築様式は神明造。創立は内宮は垂仁(すいにん)天皇代、外宮は雄略(ゆうりゃく)天皇代とされ、室町時代以降に庶民の参詣も流行、明治時代には国家神道の中心になった。

伊藤博文(いとうひろぶみ)
 (1841-1909) 武士・政治家。首相(在職1885-1888,1892-1896,1898,1900-1901)・元老。長州出身。1871-1873岩倉遣外使節副使として欧米を視察、参議兼工部卿・内務卿などを経て、1885内閣制度を創設、初代首相になり、大日本帝国憲法(明治憲法)を作成、1887保安条例を定め、1888枢密院(すうみついん)議長に就任、1892再度組閣し、1894条約改正を実現、1894-1895日清戦争を遂行し、1895李鴻章(りこうしょう)と下関(しものせき)条約を調印、台北(タイペイ)に台湾総督府を設置し、1896退陣、1898三度組閣するが、憲政党成立により退陣、1900立憲政友会(りっけんせいゆうかい)を結成して四度組閣し、1901退陣後も元老(げんろう)として君臨、1905統監府(とうかんふ)設置されると初代韓国統監に就き、1904第一次・1905第二次・1907第三次日韓協約を重ね韓国併合を目指すが、1909韓国独立運動家・安重根(あんじゅうこん)に射殺された。

右翼(うよく)
 保守的または国粋的な思想を持つ人々。国家社会主義・天皇主義・農本主義など。昭和前期、軍部と結んで力をもった。

江戸時代(えどじだい)=徳川(とくがわ)時代
 (1600or1603-1867) 江戸幕府が支配していた時代。1600関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)で徳川家康(とくがわいえやす)が政権を握ったこと、または1603家康が江戸幕府を開いたことに始まり、徳川氏が代々将軍に就任した。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還して終わった。

江戸幕府(えどばくふ)徳川(とくがわ)幕府
 (1603-1867) 江戸時代の武家政権。1603徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことに始まる。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて幕府は解体した。

桂 太郎(かつらたろう)
 (1847-1913) 軍人政治家。首相(在職1901-1906,1908-1911,1912-1913)・陸軍大将・元老。長州出身。山県有朋(やまがたありとも)のもと兵制改革に従事、陸軍次官・台湾総督などを経て1901首相に就任、1902日英同盟を結び、1904-1905日露戦争を遂行、1905ポーツマス条約を結ぶが、日比谷焼打事件で退陣、1908再度組閣し、戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布、1904第一次・1905第二次日韓協約を経て1910韓国併合を断行、ソウルに朝鮮総督府を設置し、1911大逆事件で幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らを処刑、工場法を定め、西園寺公望(さいおんじきんもち)に禅譲するが、1912三度組閣、1913尾崎行雄(おざきゆきお)・犬養毅(いぬかいつよし)らによる第一次護憲運動(憲政擁護運動)で退陣した。総理味

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1192?-1333) 鎌倉時代の武家政権。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任命されたことに始まるとされるが、創設の時期については異説が多い。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、北条氏は滅亡、幕府は解体した。 

韓国併合(かんこくへいごう)=日韓併合(にっかんへいごう)
 1910日本が韓国を領有したこと。日本は1904第一次日韓協約で韓国に財政・外交顧問を設置、1905第二次日韓協約で保護国化し、漢城(現ソウル)に統監府を設置、1907第三次日韓協約で内政権を奪い、軍隊を解散、1909伊藤博文暗殺事件などを契機に1910韓国併合条約を調印、韓国を廃して日本領朝鮮とし、漢城を京城と改め朝鮮総督府を設置、1945まで植民地として支配した。

貴族院(きぞくいん)
 (1890-1947) 大日本帝国憲法のもと、衆議院とともに帝国議会を構成した両院の一つ。皇族・華族および世襲・勅撰(勲功者・学識者)・多額納税者が議員になった。権限は衆議院とほぼ対等。1947日本国憲法により廃止。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展。

楠木正成(くすのきまさしげ)
 (1294?-1336) 武将。1333元弘(げんこう)の乱で後醍醐(ごだいご)天皇につき、河内赤坂(あかさか)城・千早(ちはや)城に籠城(ろうじょう)、鎌倉幕府軍を撃退し、建武(けんむ)の新政(中興)に参与、摂津・河内・和泉守護・河内国司に任じられ、1336謀反を起こした足利尊氏(あしかがたかうじ)を西国へ追うが、再挙した尊氏に湊川(みなとがわ)の戦いで敗死した。
窮地味

元老(げんろう)
 明治〜昭和時代初期の長老権力者。天皇に代わって首班選定や重要政策決定にあたった。伊藤博文(いとうひろぶみ)・井上馨(いのうえかおる)・山県有朋(やまがたありとも)・大山巌(おおやまいわお)・黒田清隆(くろだきよたか)・西郷従道(さいごうつぐみち)・松方正義(まつかたまさよし)の七人。後に桂太郎(かつらたろう)・西園寺公望(さいおんじきんもち)・大隈重信(おおくましげのぶ)が加えられた。

幸徳秋水(こうとくしゅうすい)
 (1871-1911) 思想家。自由民権運動に参加し、中江兆民(なかえちょうみん)に師事、「万朝報(よろずちようほう)」記者となり、1898社会主義研究会・1901社会民主党結成に参加、1903平民社を創設し、「平民新聞」を創刊、1904-1905日露戦争反対や1906無政府主義を唱えたが、1910大逆事件で処刑された。

河野広中(こうのひろなか)
 (1849-1923) 政治家。石陽社・三師社を創設して東北の自由民権運動を主導、自由党幹部として活躍し、1882福島県会議長のときに福島事件を起こして逮捕されるが、1889大日本帝国憲法発布の大赦で出獄、1886-1889大同団結運動に参加し、1890第一回総選挙以降衆院議員として活躍、衆院議長・農商務相などを務めた。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)←尊治親王(たかはるしんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339) 後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。窮地味

西園寺公望(さいおんじきんもち)
 (1849-1940) 政治家。首相(在職1906-1908,1911-1912)・元老。東洋自由新聞社長・文相・外相・枢密院(すうみついん)議長などを経て1906立憲政友会(りっけんせいゆうかい)総裁として首相に就任、鉄道国有法制定や南満州鉄道会社設立を実現、1908桂太郎に政権を譲るが、1911首相に再任、1912二個師団増設問題で退陣した後は元老となり、1924以後は最後の元老として首相候補選定にあたった。

薩摩藩(さつまはん)鹿児島藩(かごしまはん)
 江戸時代に九州南端にあった藩。外様。藩主は島津(しまづ)氏。石高は六十一万石→七十三万石(内高八十七万石)。1609島津家久(いえひさ)が幕府の許可を得て琉球(りゅうきゅう)を併合するが、1753宝暦治水事件・1808近思録崩れ(きんしろくくずれ)などで財政は窮乏、調所広郷(ずしょひろさと)の天保改革で再建し、島津斉彬(なりあきら)は洋式軍政・藩営事業を推進、幕政にも加わり、島津久光(しまづひさみつ)は雄藩連合を構想、1862英国人に対して生麦事件を起こすが、1863薩英戦争で報復されて攘夷を断念、西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)らが活躍し、1866長州藩と連携(薩長連合)、1868-1869戊辰戦争で旧幕府軍を破り、明治政府の中心勢力になった。

持明院統(じみょういんとう)
 プレ北朝。後深草(ごふかくさ)天皇の皇統。持明院(京都市上京区)を院御所とした。鎌倉時代から大覚寺(だいかくじ)統と対立し、南北朝時代には京都に北朝を樹立、1392南北朝合一後は皇位を継承した。

衆議院(しゅうぎいん)=衆院(しゅういん)
 (1890- )日本国憲法のもと、参議院とともに国会を構成する両院の一つ。戦前は、大日本帝国憲法のもと、貴族院とともに帝国議会を構成。戦前は予算の先議権が認められ、戦後は加えて法律の再議決などが認められている(衆議院の優越)。

神皇正統記(じんのうしょうとうき)
 南北朝時代の歴史書。1339頃成立。北畠親房(きたばたけちかふさ)著。神代〜後村上天皇までの歴史を簡潔に記し、南朝の正当性を主張。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)=将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号。将軍味

尊王攘夷論(そんのうじょういろん)尊攘論勤皇攘夷論(きんのうじょういろん)
 尊王論(天皇崇拝)と攘夷論(外国排斥)が結合した政治思想。江戸時代に朱子学の系統を引く水戸学などに現れて全国に普及、幕末に王政復古・討幕運動に発展し、明治維新を導いた。

大覚寺統(だいかくじとう)
 プレ南朝。亀山(かめやま)天皇の皇統。大覚寺(京都市右京区)を院御所とした。鎌倉時代から持明院(じみょういん)統と対立し、南北朝時代には吉野に南朝を樹立、1392南北朝合一後は皇位に就くことなく衰退した。 

大逆事件(たいぎゃくじけん)幸徳(こうとく)事件
 (1910-1911) 幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら無政府主義者・社会主義者が逮捕・処刑された事件。1910明治天皇暗殺を計画した容疑で二十六名を起訴、うち二十四名が死刑判決を受け、1911幸徳秋水・菅野(かんの)スガ・宮下太吉(みやしたたきち)ら十二名が処刑された。徳冨蘆花(とくとみろか)は『謀叛論(むほんろん)』で彼らを弁護したが、以後、社会主義は衰退して「冬の時代」となった。

第二次桂太郎内閣(だいにじかつらたろうないかく)第二次桂内閣
 (1908-1911) 1908西園寺公望(さいおんじきんもち)に代わって桂太郎が山県閥を中心に組閣、戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を発布し、1910韓国併合を断行、ソウルに朝鮮総督府を設置し、1911大逆事件で幸徳秋水(こうとくしゅうすい)らを処刑し、工場法を制定、1911西園寺に禅譲した。

第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)第二次大戦
 (1939-1945) 枢軸国(日本・ドイツ・イタリアなど)と連合国(イギリス・アメリカ・フランス・中国・ソ連など)との世界戦争。1939ドイツのポーランド侵攻に始まり、1941日本の真珠湾攻撃(対アメリカ参戦)・マレー半島上陸(対イギリス参戦)によってアジア・太平洋に戦渦が拡大、当初、ドイツがヨーロッパの大半を制圧し、日本が東南アジアを占領するなど枢軸国優勢だったが、次第に連合国に巻き返され、1943にイタリアが、1945ドイツ・日本がそれぞれ無条件降伏して終結した。

太平記(たいへいき)
 南北朝時代の軍記物語。四十巻。応安年間(1368-1375)成立。小島法師?著。鎌倉幕府の滅亡から南北朝の動乱を描く。暴走味 

長州藩(ちょうしゅうはん)萩藩(はぎはん)
 江戸時代に本州西端にあった藩。外様。藩主は毛利(もうり)氏。石高は三十七万石(内高七十一万石)。1831防長大一揆を機に村田清風(むらたせいふう)が藩政改革を行い、吉田松陰(よしだしょういん)・高杉晋作(たかすぎしんさく)・木戸孝允(きどたかよし)・大村益次郎(おおむらますじろう)らを輩出、1863朝命を受けて攘夷を決行(外国船砲撃事件)するが、1864四国連合艦隊に下関を砲撃されて転向、第一次長州征討で幕府に屈服するが、1865第二次長州征討では撃退、1866薩摩藩と結び(薩長連合)、1868-1869戊辰戦争で旧幕府軍を撃破、明治政府の中心勢力になった。

寺内正毅(てらうちまさたけ)
 (1852-1919) 軍人政治家。首相(在職1916-1918)・陸軍大将・元帥。長州出身。陸相・初代朝鮮総督などを経て1916首相に就任、1917-1918中国の段祺瑞(だんきずい)政府に西原借款(にしはらしゃっかん)を行い、1917アメリカと石井・ランシング協定を締結、ロシア革命で1918シベリア出兵を行ったが、米騒動で退陣した。

東京(とうきょう)←江戸(えど)
 東京都。明治時代以降の日本の首都。1868江戸を東京と改め、1869明治天皇が行幸、政府も東京に移り(東京遷都)、1871東京府1889東京市を設置、1923関東大震災で壊滅するが復興、1943府・市は合併して東京都となり、1945東京大空襲で焦土となるが、戦後よみがえった。
東京味

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味

徳川光圀(とくがわみつくに)≦水戸黄門(みとこうもん)
 (1628-1700) 大名。常陸水戸(みと)藩主。徳川頼房(よりふさ)の子。『水戸黄門漫遊記』のモデル。1657江戸に史局(彰考館)を設けて『大日本史(だいにほんし)』編集に着手し、1661父の死によって藩主に就任、幕府に殉死(じゅんし)の禁止を勧め、生類憐(しょうるいあわれ)みの令を批判、1690兄・頼重(よりしげ)の子・綱条(つなえだ)に家督を譲って隠居した。

内閣制度(ないかくせいど)内閣行政府(ぎょうせいふ)
 国政の最高機関。首長(首相・総理大臣)及びその他の大臣からなる合議体。1885伊藤博文(いとうひろぶみ)が太政官(だじょうかん・だいじょうかん)を廃して創設。

南朝(なんちょう)
 (1336-1351,1352-1392) 1336足利尊氏(あしかがたかうじ)によって京都を追われた大覚寺統(だいかくじとう)の後醍醐(ごだいご)天皇が大和の吉野(よしの。奈良県吉野町)に立てた朝廷。後醍醐・後村上(ごむらかみ)・長慶(ちょうけい)・後亀山(ごかめやま)天皇と四代続いたが(1351-1352一時合体)、1392南北朝合体(南北朝合一)で消滅。
総理味

南北朝の合体(なんぼくちょうのがったい)南北朝合一(なんぼくちょうごういつ)
 1392南朝が北朝に吸収される形で合体し、南北朝時代が終わったこと。足利義満(あしかがよしみつ)の仲介で南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が京都に帰り、北朝の後小松(ごこまつ)天皇に神器を渡して譲位した。当初は南北両朝交互に皇位に就くはずであったが室町幕府によって反故にされ、以後は現在まで代々北朝が皇位を継承している。
南北味

日英同盟(にちえいどうめい)日英同盟協約
 (1902-1923) 1902日本とイギリスの間で結ばれた同盟。ロシアの南下を阻止するため、北清事変を契機に調印。同盟国が他国と戦うときは中立を守り、他の二国以上と戦うときは参戦することにした。有効期間五年。1905・1911諸事項を追加して期限を延長したが、1923ワシントン会議の四か国条約によって失効した。

日露戦争(にちろせんそう)
 (1904-1905) 朝鮮・満州の支配権をめぐる日本とロシアの戦争。日本は1900北清事変後、満州占領を続けたロシアに対抗、1902日英同盟を結んで1904ロシアを攻め、乃木希典(のぎまれすけ)が旅順(りょじゅん)を攻略、1905大山巌(おおやまいわお)が奉天(ほうてん)会戦で勝ち、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が日本海海戦でバルチック艦隊を粉砕、アメリカの仲介で講和条約(ポーツマス条約)を調印し、ロシアに韓国指導権・関東州租借権・長春(ちょうしゅん)以南の鉄道の権益を認めさせ、樺太(からふと)の南半分の領土と沿海州・カムチャツカの漁業権を獲得したが、賠償金がもらえなかったため、日比谷(ひびや)焼打ち事件が起こった。

新田義貞(にったよしさだ)
 (?-1338) 武将。新田朝氏(ともうじ)の子。1333分倍河原(ぶばいがわら)の戦などで幕府軍を破り、鎌倉を攻略(鎌倉幕府滅亡)、1333-1335建武政権で武者所頭人(むしゃどころとうにん)に就き、1335後醍醐(ごだいご)天皇に反した足利尊氏(あしかがたかうじ)討伐に向かうも竹ノ下の戦で敗退、上洛した尊氏を西国へ追うが、1336湊川(みなとがわ)の戦で敗走、恒良(つねよし)親王を奉じて北陸に下るが、1337越前金ヶ崎(かねがさき。福井県敦賀市)城が陥落、1338藤島(ふじしま)の戦で斯波高経(しばたかつね)に敗死した。

日本(にほん=にっぽん=やまと)→大日本帝国(だいにっぽんていこく・だいにほんていこく)→日本国
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

林 鵞峰(はやしがほう)林春斎(しゅんさい)
 (1618-1680) 儒学者(朱子学)。林羅山(らざん)の子。林家を継承し、幕政に参与、父と共に『本朝通鑑(ほんちょうつがん)』『寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん・かんえいしょけけいずでん)』を編集した。

北朝(ほくちょう)
 (1336-1351,1352-1392) 1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇を京都から追い、持明院統(じみょういんとう)の光明(こうみょう)天皇に立てさせた朝廷。光厳(こうごん)上皇・光明・崇光(すこう)・後光厳(ごこうごん)・後円融(ごえんゆう)・後小松(ごこまつ)天皇と五代続いたが(1351-1352一時合体)、1392南北朝合体(南北朝合一)で解消。
総理味

戊辰戦争(ぼしんせんそう)戊辰の役
 明治初年に起こった明治新政府と旧幕府勢力との戦争。1868鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦・江戸開城・上野戦争(彰義隊の戦)・会津(あいづ)戦争・1869箱館(はこだて)戦争(五稜郭の戦)など一連の戦をいう。

室町時代(むろまちじだい)
 (1336-1573) 室町幕府が支配していた時代。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して始まり、足利氏が代々将軍に就任、管領(かんれい)がこれを補佐した。時代名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて終わった。1392南北朝合体(南北朝合一)までを南北朝時代、1467-1477応仁の乱以後を戦国時代ともいう。

室町幕府(むろまちばくふ)足利(あしかが)幕府
 (1336-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

明治維新(めいじいしん)
 江戸幕府による封建体制から、明治新政府による近代国家形成の契機になった一連の政治的・社会的改革。ペリー来航による開国から、大政奉還・王政復古の大号令・戊辰(ぼしん)戦争・五箇条の御誓文・東京遷都・版籍奉還・廃藩置県・徴兵令・四民平等・秩禄(ちつろく)処分・地租改正・郵便制度創設・鉄道開通・殖産興業・文明開化・新貨条例などを経て、西南戦争までをいうことが多い。

明治天皇(めいじてんのう)←睦仁親王(むつひとしんのう)
 (1852-1912) 伝百二十二代天皇(在位1867-1912)。孝明(こうめい)天皇の皇子。1867徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還を受けて王政復古の大号令を行い、1868五箇条の御誓文を発布、1869東京へ遷都し、1870大教宣布(だいきょうせんぷ)の詔(みことのり)・1881国会開設の勅諭(ちょくゆ)・1889大日本帝国憲法・1890教育勅語(きょういくちょくご)などを発布、日清・日露戦争の勝利し、日本の近代化を見届けた。

文部省(もんぶしょう)
 (1871-2000) 教育・学芸などを担当した中央行政官庁。長官は文部卿、後に文相。初代文部卿は大木喬任(おおきたかとう)。初代文相は森有礼(もりありのり)。2001省庁再編により文部科学省に移行。

山鹿素行(やまがそこう)
 (1622-1685) 儒学者(古学派)・軍学者。林羅山(はやしらざん)らに学び、1665『聖教要録(せいきょうようろく)』で朱子学を批判、播磨赤穂(はりまあこう)へ流され、『中朝事実(ちゅうちょうじじつ)』『武家事紀』などを著して実用の学を説き、武士道を大成した。

山県有朋(やまがたありとも)
 (1838-1922) 武士・陸軍軍人・政治家。首相(在職1889-1891,1898-1900)・元老。長州出身。1868-1869戊辰(ぼしん)戦争に活躍し、陸軍創設に尽力、1872徴兵告諭(ちょうへいこくゆ)に基づき1873徴兵令を実現、陸軍卿に参議を兼ね、1876萩(はぎ)の乱・1877西南戦争などを鎮圧、1878参謀本部を設置して参謀総長に就任、1882軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)制定に加わり、内務卿・内相として町村制の確立に尽力、自由民権運動を弾圧し、二度首相に就任、1899文官任用令改正(軍部大臣現役武官制の制定)などを行い、1894-1895日清戦争・1904-1905日露戦争を指揮、1909伊藤博文の死後は元老筆頭として絶大な権力を誇った。
選挙味

立憲政友会(りっけんせいゆうかい)=政友会
 (1900-1940) 1900伊藤博文(いとうひろぶみ)が憲政会や一部官僚を中心に結成した政党。おおかた衆議院第一党となり、総裁のうち伊藤博文・西園寺公望(さいおんじきんもち)・原敬(はらたかし)・高橋是清(たかはしこれきよ)・田中義一(たなかぎいち)・犬養毅(いぬかいつよし)は首相として組閣し、昭和初期には立憲民政党(りっけんみんせいとう)とともに二大政党として君臨するが、1932五・一五事件後は衰退、1940新体制運動で解体した。

早稲田大学(わせだだいがく)=早大(そうだい)←東京専門学校(とうきょうせんもんがっこう)
 (1882-) 明治時代に創立された私立大学。東京都新宿区所在。1882大隈重信(おおくましげのぶ)が創立し、1902早稲田大学と改称、1923早稲田軍教事件が起こった。

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