2.本気出そ〜? | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2020>令和二年4月号(通算222号)巣籠味 第一次北畠満雅の乱2.本気出そ〜?
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後亀山法皇の吉野帰還は旧南朝の武将たちを奮い立たせた。
「法皇陛下が吉野へ帰られたそうな」
「本気出すって出奔されたそうな」
「何だそれ!? 北の連中に反旗を翻したってことか!?」
「うっひょひょー! 南朝は復活した! よーし、俺たちも本気出そー!」
まず立ったのは飛騨国司・姉小路尹綱である。
「正当な皇統は南朝である! 者ども、この機に飛騨から守護勢力を一掃せよ!」
尹綱は地元の豪族・広瀬常登(ひろせつねのり)とともに五百騎で決起した。
時の飛騨守護は京極高数である。
高数は飛騨の他に出雲隠岐守護も兼ねており、その兄・京極高光は北近江守護を務めていた。
「しゃらくせー! 返り討ちにしてくれるわー!」
応永十八年(1411)七月、高数は四か国から四万の大軍を動員、三方から古川盆地に乱入すると、尹綱らを瞬殺してしまった。
同年十一月、躬仁親王が元服すると、旧南朝諸将はざわめいた。
「何だと? 北のニセ皇子が親王宣下と同時に元服しただと!?」
「まさか、立太子させるつもりじゃないだろうね?」
「バカな! すでに泰成親王殿下という皇太子がいらっしゃるのに!」
翌応永十九年(1412)八月、北朝の天皇・後小松天皇は譲位し、躬仁親王が践祚(せんそ)すると(称光天皇)、南朝諸将の怒りは爆発した。
「やっぱりそうかー!」
「やりやがったなコノヤロー!」
「許さん! 断じて許さーん!」
中でも最も怒っていたのは伊勢国司・北畠満雅である(「北畠家系図」参照)。
「ニセ王朝北朝を討つべし!」
「おう! やってやるか!」
弟の北畠顕雅もその気であった。
そこへ都から使者が来た。
「もうすぐ新帝の即位礼があります。国司さまも出席してくださいね〜」
満雅は怒りを押し殺して返答した。
「わかった。私は出席できないが、一族の者を遣わす」
「ありがとうございます〜」
使者が帰った後、顕雅が聞いた。
「一族の者って誰?」
「木造俊康(こづくりとしやす。俊泰・北畠俊康)だ」
「ああ」
「私は北の偽帝なんかに頭を下げには行かぬ。私が頭を下げるのは、南の真帝だけだ」
応永二十一年(1414)十一月、称光天皇は即位礼を執り行った。
北畠家からは木造俊康が出席した。
ところが儀式が終わっても俊康は帰ってこなかった。
満雅はいぶかしがった。
「どういうことだ?」
顕雅も怪しんだ。
「まさか、俊康がいらぬ告げ口でもしたのでは?」
「ううむ、告げ口されたら困ることばかりだ」
「ひょっとして北の連中は、兄上から俊康に国司を交代させようとしているのでは?」
「何だと! そんな資格は北の偽帝にはねえぞ!」
「約束も守らない北の連中ならやりかねません」
「させるかー!そんならこっちは先手を打ってやるぜー!」
応永二十二年(1415)三月、ついに北畠満雅は室町幕府に反乱を起こした。
木造俊康の居城・坂内城(三重県松阪市)を血祭りにあげると、
「来るならきやがれ!」
阿射賀城(あさかじょう。阿坂城。三重県松阪市)で籠城したのである。
同時に顕雅は大河内城(おおかわちじょう。松阪市)で籠城、大和の宇陀郡では沢氏や秋山氏などが呼応して決起した。