4.本気出る〜?

ホーム>バックナンバー2020>令和二年4月号(通算222号)巣籠味 第一次北畠満雅の乱4.本気出る〜?

コロナパンデミック
1.本気出す〜?
2.本気出そ〜?
3.本気出せ〜?
4.本気出る〜?

 応永二十二年(1415)三月、幕命を受けた土岐持益は、世保康政・仁木満長・木造俊康らを率いて北畠満雅討伐を開始した。
 まず、拝野城を攻撃し、これを陥落させた。
 さらに木造城も攻め、木造雅俊
(こづくりまさとし。俊康の弟)を追い、俊康に守備を命じた。
 そして翌三月、満雅の本城・阿射賀城を攻囲したのである。

 ところが、城の守りは固く、容易に落ちなかった。
 何度攻めても奇襲や夜襲の反撃を受けて死傷者を増やすだけであった。
 持益は俊康を呼びつけて聞いた。
「そちは満雅と同族ゆえ、あの城の事情に詳しいであろう?」
「ええ。何度かお邪魔したことがございますから。まことに堅牢
(けんろう)なつくりをしておりまする」
「具体的にどう堅牢なのか?」
「まず、あの高い山の上にありまする。中心部は北の郭
(くるわ)と南の郭に分かれており、その北方には天花寺城という出城がありまする」
「うむ」
「また、東方にも出城が二つあり、南方は崖
(がけ)になっており、『地獄谷』と呼んでおりまする」
「それだ。我が軍はその谷を攻めて多くの死傷者を出したのだ」
「力攻めは無理かと存じまする」
「では、兵糧攻めでも仕掛けるか?」
「それも無理でございましょう。初めから敵は籠城するつもりなのです。兵糧は十分に確保していることでしょう」
「それならどうすればいいのか? あの城に何か弱点はないのか?」
「ありまする」
「それは何だ?」
「あの城には井戸がありませぬ」
「ほう」
「近くに川がありますゆえ、井戸が必要ないのでございまする」
「なるほど。ならば川を封鎖して汲みに来れないようにすればいいわけだな?」
「良き策かと」

 幕府軍は川を封鎖して阿射賀城の水断ちを試みた。
 何日かすると、城内の水瓶
(みずがめ)の水がなくなってきた。
「殿。もうじき水がなくなります」
「何だと? 水は川から汲んでいるのではないのか?」
「川は幕府軍に封鎖されました」
「ならば敵を突破して汲みに行くしかないではないか」
「無理です。大勢で封鎖してますので、突破できません」
 満雅は舌打ちした。
「何たることだ! 米や塩はたくさん用意してあるのに、水がなくなったら戦えないではないか!」
 そこへ馬飼いがやって来て案を出した。
「殿様。私めにいい考えがあります」
「どんな考えだ?」
「ようは城内に水がまだ豊富にあるよう敵に思わせればいいんでしょう?」
「そういうことだ。意味がないことだと知れば、封鎖をやめてくれるであろう」
「わかりました。では、今から私が敵のよく見える所に演技しに行きますので、アレをたっぷり入れた飼い葉桶を何個か用意してください」
「アレとは?」
 馬飼いは満雅の耳元でコショコショと明かした。
 満雅は許可した。
「よくわからないが、他に手はないのだ。とにかくやってみろ」
「ははっ」

 馬飼いは馬を連れて櫓(やぐら)に上った。
 当然、幕府軍の視線を一身に浴びた。
「敵に動きがありました! 誰かが櫓から何かを伝えようとしています!」
 家臣からの報告を開けて、持益は喜んだ。
「ははあ、さては水が尽きたため、降参を申し入れるつもりであろう! 我が軍は勝ったぞー!」
「おおーっ!」
 幕府軍は歓喜に沸いた。
 みなみな笑顔で櫓に注目したが、馬飼いにそんなつもりはなかった。
 馬飼いは飼い葉桶を掲げると、
 じゃぱーん! ごしごし!
 惜しげもなく水をかけて馬を洗い始めたのである。
 ざぶーん!ごしごしごしごしっ!
 幕府軍は面食らった。
「なんだなんだ?」
「水がなくなったんで降参するんじゃなかったのか!?」
「馬なんか洗ってやがるぞ!」
「しかも惜しげもなく水を使って!」
「あっ! また水をかけやがった!」
「全然水不足じゃねえじゃねーか!」

 持益は俊康を呼びつけた。
 そして、
「あれを見よ」
 と、櫓で馬を洗っている様子を見せた。
 ざはざはざはーん! ごしごしごしぃ〜。
 俊康も信じられなかった。
「ま、まさか、あんなに水があるとは……」
「我々が懸命に水断ちを敢行しているにもかかわらず、馬も洗える水があるということは、隠し井戸でもあるんじゃないか?」
 俊康は混乱した。
「わわっわかりません! 私も城内すべてをくまなく見回ったわけではありませんので……」
 持益は家来たちに命じた。
「ということだ。川の封鎖など無用だ! 長期戦になるかもしれぬが、兵糧攻めに切り替えるしかなかろう!」
「ははーっ」
 実は馬飼いは、水ではなく、米で馬を洗っていたのである。
 それが遠目には水で洗っているように見えただけなのであった。

 持益の予想通り兵糧攻めは長期戦になった。
伊勢国司殿がまだ籠城しているそうな」
「北畠満雅殿はもう何か月も持ちこたえているそうな」
「まるでかつての大楠公
(くすのきまさしげ。「窮地味」参照)のようじゃ」
「よーし、俺たちも本気出してやるぜー!」
 沢氏や秋山氏も大和で抗戦を続けた。
「万が一、幕府が敗れた時のために準備をいたせ!」
 幕府と対立している鎌倉公方足利持氏
(もちうじ。「クジ味」参照)は、鎌倉で兵を集めた。
「僕にも好機あるかも!」
 かつて天皇になりかけたことがある足利義嗣
(よしつぐ。義持の弟)にも不穏な動きが出てきた。

「北畠を放っておけば、とんでもないことになりますよ〜」
 元侍所頭人・赤松満祐
(あかまつみつすけ。「暴君味」参照)の進言を受け、足利義持大和に赴いた。
 応永二十二年(1415)八月、後亀山法皇の弟・説成
(かねなり・ともなが)親王の仲介で満雅と和議を結び、幕府軍を撤収させたのである。
 

[2020年3月末日執筆]
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※ 阿射賀城は持ちこたえたという説と落城説があります。
※ 米を水に偽装する「白米城」の逸話は、岩切城(宮城県仙台市)・平田城(大分県中津市)・戸石城(長野県上田市)・阿寺城(岐阜県中津川市)・石神井城(東京都練馬区)・逆井城(茨城県坂東市)などでも伝えられています。

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