1.光孝天皇の崩御 | ||||||||||||||
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光孝天皇(「天皇家系図」参照)は死にかけていた。
即位後わずか三年にして、その命は尽きようとしていた。
すでに即位時に、五十五歳の老齢であった。
近いうちにこういう事態が来ることは、分かりきっていた。
太政大臣・藤原基経(「藤原北家系図」参照)は内裏の仁寿殿(じじゅうでん・じんじゅでん。天皇の常所)に光孝天皇を見舞った。
光孝天皇は礼を言った。
「汝(なんじ)には本当に世話になった。朕(ちん)が思いもかけず天皇になれたのは、すべて汝のおかげじゃ(「引退味」参照)」
光孝天皇は弱々しく手を差し伸べた。
基経がその手を握り締めて、首を横に振った。
「いえいえ。お礼を申し上げなければならないのは、私のほうでございます。『すべて汝の思うがままにせよ』帝がそうおっしゃられたおかげで、私は存分に執政することができました。帝は寛容であらせられました。従順であらせられました。いい言葉ではございませんが、本当に見事な人形であらせられました」
元慶八年(884)五月、光孝天皇は、当代一流の学者たち、以下八名を呼び集めた。
文章博士 | 菅原道真(すがわらのみちざね) |
少外記 | 大蔵善行(おおくらのよしゆき) |
明法博士 | 善淵永貞(よしぶちのながさだ) |
明法博士 | 凡 春宗(おおしのはるむね) |
大内記 | 菅野惟肖(すがののこれかた・これよし) |
明法博士 | 忌部濬継(いんべ・いむべのよしつぐ) |
助 教 | 浄野宮雄(きよののみやお) |
助 教 |
中原月雄(なかはらのつきお) |
そして、こんな質問をしたのである。
「太政大臣の職掌(職務)とは何か?」
学者たちは困惑した。
答えは分かっているが、その答えが光孝天皇を満足させるものではないことも分かっていた。
「えーとですね……」
「あのー、そのー」
はっきりしない学者たちの中で、ただ一人、明確に発言した学者がいた。
文章博士(もんじょうはかせ。中国文学教授)・菅原道真(「菅原氏系図」参照)である。
「太政大臣に職掌はありません。唐の官制に照らせば、相国(しょうこく)に相当すると存じますが、日本と唐の官制は著しく異なっておりますゆえ、参考にはならないかと」
とたん、光孝天皇は不機嫌になった。
喜んだ学者がいた。
(言ってしまったな、愚か者め!)
道真のライバル・大蔵善行である。
当時学界には、菅原学閥と大蔵学閥という二大学閥があり、善行はその一方の領袖(りょうしゅう)であった。
道真の「天神」に対し「地仙」と呼ばれた鬼才であり、性にも生にも執着心が強く、八十七歳で子を成し、九十歳を超す天寿を全うしたと伝えられている怪老である。
翌月、光孝天皇は、太政大臣の職掌に関係なく、基経に全権を委任する勅を発表した。
これが基経の事実上の関白就任となった。
仁和二年(886)正月、道真は讃岐守に任じられて四国に渡った。
「左遷されたのだ」
人々はうわさした。
善行は歓喜した。彼は裏に表に道真排斥運動を展開していたことであろう。
「出る杭(くい)は打たれるのだ!」
「人形か……」
光孝天皇は苦笑した。
基経が話題を変えた。
「ところで、皇太子がまだ定まっておりませんが、帝にはどなたか意中の方がおられますか?」
「意中の……」
「はい。私は存じておりますよ。帝には、意中の方がおられます」
「……」
「源定省――。そうでしょう?」
源定省は、光孝天皇の第七皇子である。
元慶八(884)年四月、基経に遠慮する光孝天皇は、他の皇子女とともに定省親王に源姓を賜い、臣籍に下ろしていたのであった。
「……」
なお黙っていた光孝天皇に、基経が言った。
「帝。帝と私は古くからの親友ではありませんか。私はいつも、帝に遠慮したことはありませんでした。しかし、帝はいつも私に遠慮されていました。『すべて汝の思うがままにせよ』ではなく、最後ぐらい御自分の御意思を示されてはいかがですか?」
光孝天皇は涙を流した。そして言った。
「さすがは基経。朕の心をよく解っておる。いかにも朕は、心の中だけで定省の立太子を願っておった」
「やはりそうでしたか。ではさっそく朝議にかけて立太子の手続きを」
立ち上がった基経に、光孝天皇が言った。
「基経。また若い頃のように宇多野(うだの。京都市右京区)に遊猟に行こうではないか」
基経は笑って返した。
「いつでも行けますよ!」
退席する基経に、静かに手をたたく女がいた。
基経の妹で、尚侍(ないしのかみ・しょうじ。内侍司長官。後宮女官長)を務める藤原淑子(しゅくし)――。
「兄上、上出来です」
基経は苦々しく言った。
「本来であれば、藤原氏を母に持つ皇子を立太子させたいところだか、あいにく今は適当な皇子がいない。だから仕方なく、帝が望み、お前も推す皇子を立ててやったのだ」
定省の母は、仲野親王(なかのしんのう。桓武天皇の皇子)の王女・班子女王(はんしじょおう)である(「天皇家系図」参照)。
「うれしい!」
淑子は喜んだ。
尚侍の彼女にしてみれば、御主人様はボーヤ(先帝陽成天皇即位時九歳)やジジイ(光孝天皇)より、イケメンの青年(定省二十一歳)のほうがいいに決まっていた。
仁和三年(887)八月二十五日、源定省は皇族に復して定省親王となり、翌日、立太子した。
同日、仁寿殿で光孝天皇は崩御、宇多野に葬られた。