ホーム>バックナンバー2004>3.藤原温子(ふじわらのおんし)の求愛
アレとは、女であった。
基経がすねる前夜、夜御殿(よんのおとど。天皇の寝室)に、見知らぬ美少女がやって来た。
「来ちゃった」
美少女は言った。ほひっと笑った。かと思ったら、赤面してうつむいた。
宇多天皇は不審がった。
「だれ?」
美少女は名乗った。
「藤原基経の娘、温子(おんし)。十七歳です。うふっ」
「基経の娘……」
事態はつかめた。
そうなのだ。宇多天皇と血縁の薄い基経は、娘を送り込んできたのであった。天皇の外戚になるために――。
温子は宇多天皇の寝台に飛びついてきた。衾(ふすま。上布団)の端をつかむと、果敢にも中にもぐりこもうとした。
「何をする!」
宇多天皇は驚いた。思わず衾から飛び出した。
「何って、決まってるじゃな〜い」
「なんてマネだ!
あっち行け!」
温子は世にも悲しそうな顔をした。
「私のことがお嫌いですか?
好みじゃないとか、生理的に受け付けないとか……」
宇多天皇はわめいた。
「そんなことは言ってない! 朕にはすでに妻子があるのだ! 新たな妃など、必要ないのだっ!
帰れ!」
「帰らない!
ずっとここにいる!」
温子は枕にしがみついた。
宇多天皇は困った。温子に言った。
「汝のしていることは本意ではないはずだ。父に言われたから、渋々そうしているんであろう?」
「そんなことないもん!」
温子は首を横に振った。
「帝は御存知ないかもしれないけど、私はずっとずっと、帝のことをお慕いしていました!
父の牛車に乗せられて、何度もこっそり帝のお姿を拝見したことがありました!『あの方はだれ?』私が聞くと、父は答えました。『お前の王子様だよ』って。『私の王子様……』 そのときからずっと、私は帝のことばかり考えていました!
こうして帝と結ばれる日が来ることを心待ちにしていました! ずっとずっと夢見ていました!」
「勝手に決めるな! 思い込みだ! お前の父が作り上げた妄想だ! 基経め、その手には乗るもんか! 摂政も関白も、基経の代で終わりだっ! おしまいにするんだっ!」
「そんなら、今度は橘広相を摂関にするおつもりですか? 橘義子を立后させるおつもりですか?
義子をそんなに愛しているんですか?」
「違う! 本当は朕は、天皇親政を目指しているのだっ! ただ、義子を愛しているのは、紛れもない事実だ!」
温子は泣きそうになった。
宇多天皇は、とどめを刺そうと声を張り上げた。
「朕は義子を愛している! 義子は汝より、ずっといい女だ! 汝なんて義子の足元にも及ばない!
彼女に比べたら、まるでブスで下種で不細工女だ!」
温子は耐えていた。今にも崩れそうな顔で、じっと見つめてきた。
宇多天皇はたまらず視線をそらした。
(さすがにこれであきらめたであろう)
温子は寝台から下りた。
帰るのかと思ったら、近付いてきた。下から宇多天皇をのぞき込んできた。そして、顔をそらそうとした彼のほおを両手で包み込んで言った。
「今の言葉、私の顔を見ながら、もう一度言ってみて」
「な、なんだと……」
「私の顔をよーく見て! この顔が本当にブスですか? ゲスですか? 義子よりずっと、ブサイク女ですかっ?」
温子は思いっきり微笑んだ。世界中の百花繚乱(ひゃっかりょうらん)をその顔一つに集めたようにニッコリと笑った。彼女はかわいかった。義子なんかより、ずっとずっと美しかった。
「うわぁあぁ〜!」
宇多天皇は温子を突き飛ばすと、夜御殿を飛び出していった。
外では尚侍・藤原淑子がひかえていた。待ち構えていた。
「どうかしました?」
「べつに」
「何か中でお騒ぎのようでしたけれど……。誰かいるんですか?」
「いや。誰もいない。女も連れ込んでいないのに、いるはずがなかろう!」
淑子はクスリと笑った。
「だったら、お休みになられては?」
「おっ、お休みなんて、耐えられるもんか!」
その晩、宇多天皇は外で寝た。


