★ 黒幕は北条か? 三浦か? それとも…… 〜 鎌倉時代最大の変事・源実朝暗殺事件! |
||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2003>将軍
|
現在、日本に将軍はいない。
江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜を最後に、将軍は出ていない。
にもかかわらず、近頃よく「将軍」という言葉を耳にし、文字を目にする。
お分かりであろう。かの国の首領のことである。
先月(平成十五年四月)からメソポタミア文明発祥の地で、警察も手に負えない最悪の暴力団抗争が続いているが(「窮地味」参照)、かの国の動向も気になるものだ。
日本で初めて登場する将軍は「四道将軍(しどうしょうぐん)」である。
伝十代大王・崇神天皇(すじんてんのう)は、全国平定を目指して四人の将軍を任命、大彦命(おおひこ・おおびこのみこと。大毘古命)を北陸に、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を東海に、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を西海に、丹波道主命(たにわみちぬしのみこと)を山陰に遣わしたという記録が『日本書紀』に残されている(『古事記』とは一部記載が異なる)。
つまり、この四人が記録にある日本で最初の将軍というわけだ。
ただ、日本で将軍といえば征夷大将軍を差すのが普通である。
征夷大将軍は坂上田村麻呂(「平城味」等参照)に代表されるように、もともとは「蝦夷を征伐するための大将軍」であり、陸奥で兵乱が起こったときだけ置かれた臨時職であったが、建久三年(1192)に源頼朝が就任して以降は常置になり、武家政権のトップに君臨する者の称号となった。
最初の征夷大将軍は、奈良時代の官人・大伴弟麻呂(おおとものおとまろ。乙麻呂)とされているが、それ以前の征討指揮官もそう呼ばれていた可能性があるため、断定はできない。
* * *
さて、今回は推理モノである。
鎌倉時代最大の変事・源実朝暗殺事件を御紹介し、あれこれいわれている暗殺者の正体を暴いていきたい。
御存知と思うが、実朝は建保七年(1219)に鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう。神奈川県鎌倉市)において、公暁によって暗殺された。
直後、公暁も北条義時(「挑発味」等参照)の命令によって三浦義村(みうらよしむら)の手下に殺害されている。
ここに清和源氏の正統は三代で滅び、以後は北条氏が名ばかりの将軍を立てて執権として幕政を牛耳っていくことになる。
後述するが、この事件には疑問点が多い。
しかも事件後に北条氏が一番得をしたように見えるため、
「北条義時が公暁をそそのかして実朝を殺させ、口封じに下手人を消したのではないか」
と、いう「北条義時黒幕説」がまことしやかにささやかれるようになった。
また、近年では、
「いやいや。三浦義村が公暁と組んで幕府転覆を図ったが、途中で気が変わって北条に寝返ったのだ」
というような「三浦義村黒幕説」も勢力を拡大しつつある。
しかし、私はこれら主流の二つを支持しない。黒幕は「あの人物」に決まっている。彼ほど実朝を憎み、鎌倉幕府をうらんでいた人物は、ほかにいないではないか。教科書にも載っている大人物なのに、なぜ多くの人々はその存在を見過ごしているのであろうか。
実朝が死んで一番得したのは、間違いなく「その人物」である。しかし彼は、やがて北条氏との戦いに敗れて没落してしまった。そのため彼は一時的とはいえ、天下を取ったことすら忘れられているのである。
改めて言う。北条氏は実朝を殺したことによって天下を取ったわけではない。実朝を殺した「その人物」に勝ったことにより、初めて天下を掌握(しょうあく)したのである。
では、「その人物」とは誰か?
これだけ言っては、すでにバレているかもしれない。読者は感づかれたであろうか?
「あ、あいつか……。あのお方か――」
では、私が「その人物」を名指しする理由は後にして、まずは『吾妻鏡』および『愚管抄』等をもとに、源実朝暗殺事件を再現してみる。
[2003年3月末日執筆]
ゆかりの地の地図
参考文献はコチラ