◆ 源実朝暗殺事件

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将軍
◆ 源実朝暗殺事件
1.北条義時黒幕説の否定
2.三浦義村黒幕説の否定
3.黒幕の正体 〜 戦慄の幕府乗っ取り計画

 承久元年(1217)は、四月十二日に改元されるまで建保七年である。
 その年の正月二十七日、鎌倉では昼は晴れていたが、夕方から大雪になった。二尺というから、約六十センチメートルも降り積もったわけだ。

源 実朝 PROFILE
【生没年】 1192-1219
【別 名】 源千幡
【出 身】 北条時政邸(神奈川県鎌倉市)
【本 拠】 鎌倉(神奈川県鎌倉市)
【職 業】 武将・歌人
【役 職】 征夷大将軍(1203-1219)・左近衛中将
→権中納言→権大納言・左近衛大将
→内大臣→右大臣
【位 階】 従五位下→従五位上→正五位下
→従四位下→従三位→正二位
【 父 】 源 頼朝(義朝の子)
【 母 】 北条政子(北条時政女)
【 妻 】 西八条禅尼(坊門信清女)
【 子 】 ナシ
【兄 弟】 源頼家・大姫・乙姫
【お じ】 源義経・北条義時ら
【 甥 】 公暁・一幡ら
【主 君】 後鳥羽上皇
【 師 】 藤原定家・内藤知親・明庵栄西ら
【 友 】 鴨長明ら
【側 近】 源仲章・大江広元・和田義盛ら
【仇 敵】 後鳥羽上皇ら
【著 作】 金塊集
【墓 地】 寿福寺(神奈川県鎌倉市)

 酉の刻(とりのこく。午後六時頃)将軍源実朝(「清和源氏系図」参照)は御車で鶴岡八幡宮に向かった。
 護衛は鎌倉武士約一千人。

 鶴岡八幡宮は源氏の氏神である。
 康平六年(1063)に当時の清和源氏の棟梁
(とうりょう)源頼義(「降伏味」参照)が、山城の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう。京都府八幡市)の分霊を鎌倉に勧請した大社である。
 建久二年(1191)の大火で社殿が炎上するが、五代後胤の頼朝によって、よりゴージャスに再建された。

 あたりが薄暗くなるにつれ、境内に人影が増え始める。
 来賓ははるばる京都からもやって来ていた。
 権大納言
(ごんだいなごん)坊門忠信(ぼうもんただのぶ。実朝の義兄)、権中納言(ごんちゅうなごん)西園寺実氏(さいおんじさねうじ。西園寺公経の子)参議藤原国通(ふじわらのくにみち)、散位(さんい)平光盛(たいらのみつもり)、刑部卿(ぎょうぶきょう)難波宗長(なんばむねなが。蹴鞠の名手。「日韓味」参照)という五人の公卿である。

 やがて実朝の行列も鶴岡八幡宮に到着した。
 実朝以下、一部の武士たちは社殿の中に入る。
 このとき、北条義時
(「北条氏系図」参照)は剣を持って先駆を務めていたが、急に、
「気分が悪い」
 と、剣を文章博士
(もんじょうはかせ)・源仲章(みなもとのなかあき・なかあきら)に渡して退出した。

 今晩は朝廷の儀式のため、多くの武士は中に入ることができない。寒いお外で見張り番である。下っ端の武士たちには、今夜が何の宴会なのかも分からなかったであろう。
将軍実朝様が右大臣に昇進なさったそうだ」
「今晩はそのお祝いだそうな」
「ダイキョウだってよ」
「ダイキョウ? なんじゃそりゃ?」

 大饗(だいきょう・たいきょう・おおあえ)とは、正月や大臣任官の際に、内裏や大臣家で行われた大宴会のことである。


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現在の鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)周辺

 大饗は「拝礼の儀」で始まる。
 主人
(ここでは実朝)と尊者(そんじゃ。正客のこと。ここでは前記の公卿五人)があいさつを交わすのだ。
 続いて「宴座
(えんのざ。正宴)」がある。
 尊者は殿内へ迎えられ、宴会が行われる。宴会では杯が交わされ、楽や舞が催される。
 次は部屋を替えて「穏座
(おんのざ。二次会)」である。
 酒を飲み、肴
(さかな)をつまみながら、歌を歌ったり、配られた楽器を鳴らしたりして楽しく遊ぶのだ。
 最後は「賜禄
(しろく)」があってお開き、一同退出するのである。

「終わった終わった」
 大饗後、実朝は胸をなでおろしたであろう。酔いもかなり回っていたはずだ。
 前駆代行の仲章が、
「外は暗くなっております。お気をつけて」
 と、たいまつで足元を照らした。

 ここで事件は起こった。
 暗闇の中から突然、覆面法師が現れたのである。白刃が雪明りにきらめいた
(『増鏡』などでは、下手人は女装して近づいたとある)
「親の敵はこうやって討つのだっ!」
 覆面法師はそう叫ぶと、実朝が引きずるようにして歩いていたすそ
(束帯の下襲の裾)の上に飛び乗った。
「……?」
 実朝は体勢を崩した。酔っ払い中なので、思考停止状態。彼はたちまち脳天をたたき割られ、首を打ち落とされた。享年は二十八歳。

「ゲッ、将軍様の首がない!」
 見上げて仰天した仲章も、
「そいつは義時だ! 討ち取れっ!」
 覆面法師の指示によって現れた手下たちにより、よってたかって斬殺
(ざんさつ)された。

 公卿たちはびっくりした。
 柱に隠れた。境内を逃げ回った。
「あれー!」
「えらいこっちゃ! えらいこっちゃ!」
「あっち行きゃれ!」
「まろはなんにもしてへんがな!」
「くわばら! くわばら!」
 境内にはだれも武装している者はいないので、どうにも対処しようがない。
「本懐は果たした。引き上げるぞっ!」
 騒ぎを聞きつけ、ようやく外から武士たちが駆けつけた頃には、覆面法師らは逃げ去ったあとであった。

 覆面法師の正体は、鶴岡八幡宮寺別当(べっとう)公暁であった。
 前将軍源頼家の忘れ形見で、実朝の甥
(おい)に当たる。どういうわけか、実朝を父の敵だと勘違いしていた。
 公暁実朝の首をわきに置いて飯を食らうと、幕府の重鎮・三浦義村
(みうらよしむら)に使者を送った。義村の妻は公暁の乳母である。
将軍実朝は殺した。今日からはオレが将軍だ。お迎えをよこせっ」

公 暁 PROFILE
【生没年】 1200-1219
【別 名】 源善哉
【出 身】 鎌倉(神奈川県鎌倉市)
【本 拠】 鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
・園城寺(滋賀県大津市)
【職 業】
【役 職】 鶴岡八幡宮寺別当(1217-1219)
【 父 】 源 頼家(源頼朝の子)
【 母 】 賀茂長重女(源為朝孫)
【叔 父】 源 実朝
【乳 母】 三浦義村室
【妻 子 】 ナシ
【兄 弟】 一幡・禅暁・竹御所
【 師 】 尊暁・公胤・定暁
【弟 子】 駒王丸(三浦光村)ら
【没 地】 三浦義村邸前(神奈川県鎌倉市)

 義村はガタガタ震えた。迷わず決断した。
公暁は反逆者だ。縁者だからといって、かかわってはいけない」
 そして、義時におうかがいの使者を送った。
「殺せ」
 それが義時の返事であった。
 義村は、
「それでは、お迎えを遣わします」
 と、公暁にはウソをついて、実は刺客たちを差し向けた。

 公暁は喜んだ。
「おお、お迎え御苦労」
 ところがお迎えは、いきなり刃物を振り回し始めた。
 公暁は激怒した。
「約束が違うではないか!」
 公暁も対抗して刃物を振り回した。手下もいっしょになって暴れまくった。

 連中は強かった。相当強かった。義村が選抜した長尾貞景(ながおさだかげ。長尾定景)ら刺客どもも、そのものすごさにたじろいだ。
「さすがは鎮西八郎
(ちんぜいはちろう)殿の血を引く男……」
 公暁の母は、弓の猛者として知られた源為朝
(ためとも)の孫である。

 公暁らはひるんだ貞景らの囲みを突破した。
「義村め! こんなことして、ただですむと思うなよ!」
 義村邸目指して駆け出した。
 貞景は慌てた。
「追えっ!」
 刺客どもは追った。ピュンピュン矢を放った。手下どもは一人二人倒れたが、公暁はなお逃げた。

 公暁は刺客どもを振り切って義村邸にたどり着くと、よっこらせと塀を乗り越えようした。ここでちょっと手間取った。
「今だ! 放て!」
 貞景らにしてみれば、最後のチャンスだった。ここぞとばかりに雨あられのように矢を射掛けた。
 公暁は無数の矢を受け、ハリネズミのようになって落下した。
 そして、駆けつけた刺客たちによって討ち取られた。享年は二十歳。

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