3.黒幕の正体 〜 戦慄の幕府乗っ取り計画

ホーム>バックナンバー2003>3.黒幕の正体〜戦慄(せんりつ)の幕府乗っ取り計画

将軍
◆ 源実朝暗殺事件
1.北条義時黒幕説の否定
2.三浦義村黒幕説の否定
3.黒幕の正体 〜 戦慄の幕府乗っ取り計画

 北条義時も三浦義村も黒幕でないとすれば、いったい誰が黒幕なのか?
 それとも、黒幕などはじめから存在せず、公暁の単独犯行だったのか?

 いやいや。黒幕は確かに存在した。
 私が黒幕と信じている人物とは、斜陽の帝王・後鳥羽上皇
(「天皇家系図」参照)である。

 疑問に思われる方があるかもしれない。
後鳥羽上皇源実朝と仲良しだったと思うが……。だから上皇は実朝右大臣まで昇進させたんではないのか?」

 仲良しのはずがない。
 鎌倉幕府後鳥羽上皇率いる朝廷から政権を奪った憎き敵である。
 自分たちの土地に勝手に守護地頭を送り込み、分け前を要求するおぞましいたかり連中である。
 そんな連中の大ボスと、誰が仲良くしようと思うであろうか。

「なんとかして幕府を滅ぼす方法はないものか」
 いつもそう考えていた後鳥羽上皇に、乳母の藤原兼子
(ふじわらのけんし・かねこ。卿二位。「藤原南家系図」参照)が入れ知恵した。
実朝に女でも紹介すれば?」
 兼子は藤原定家から「権門女房」と評された、当時最強の女権勢家であった。
「なんで敵に女なんか紹介するのか!」
 納得いかない上皇に、兼子が恐ろしいことを言った。
「将軍家の血統を絶やすためよ」

 元久元年(1204)、実朝は、源氏の名門・足利義兼(あしかがよしかね。「足利氏系図」参照)の娘との婚約をけって、後鳥羽上皇側近・坊門信清(ぼうもんのぶきよ」参照)の娘と結婚した。
 信清の姉・藤原殖子
(しょくし。七条院)後鳥羽上皇の生母であり、信清の娘の一人は、上皇の後宮に入っている。
 実朝は、武家の名門との絆
(きずな)を深めることよりも、上皇との関係を重視し、この結婚に踏み切ったわけだ。

 彼の歌集『金塊和歌集』には、次のような上皇に忠誠を誓うような歌がいくつか残されている。

   山はさけ海はあせなん世なりとも 君にふた心わがあらめやも

 後鳥羽上皇はせせら笑ったであろう。
「へん。口では何とでも言えるよな」
 これに対して上皇の歌は、こんな感じである。

   奥山のおどろが下をふみわけて 道ある世ぞと人に知らせん

 兼子は鎌倉へ下る坊門信清の娘に、次のように命じたと思われる。
実朝が浮気しないように常に監視しているのよ。それから、彼との間に子供が生まれたら、すぐに殺すこと。それが嫌なら、原因になることはしないことね」

 兼子が見込んだだけあって、信清の娘は忠実だった。
 その結果、実朝と彼女の間には、何年たっても子供が生まれなかった。もちろん、いつも彼女が見張っているため、実朝はほかの女のところに通うともできなかった。

 後鳥羽上皇と兼子はひそかに喜んであろう。
「まんまとうまくいった。これで実朝さえ消えてくれれば、将軍家の血統は絶える」

 後鳥羽上皇実朝に、当時の中国・への亡命を勧めた。
へ行ってはどうか?には歌詠みにはたまらない絶景がたくさんあるそうだぞ」
ですか。いいですね」
 実朝がその気になると、の工人・陳和卿
(ちんなけい・ちんわけい)を紹介し、船を造らせて渡航の準備をさせた。
 ところが造船は失敗、実朝の渡航はおじゃんになった。

「亡命しないのなら、死んでもらうしかないな」
 後鳥羽上皇は白川
(白河。京都市左京区)に最勝四王院(さいしょうしおういん)という寺を建立、ブレイン妖僧・尊長(そんちょう)を使って実朝を呪(のろ)い殺させようとした。
 一方で、実朝を「官打ち」にすることをたくらんだ。
 「官打ち」とは、身分に過ぎた昇進をすると若死にするという、当時の朝廷にあった迷信である。上皇実朝右大臣までスピード昇進させたわけは、それがねらいだったのだ。

 とんとん拍子に出世していく実朝を見て、初代政所別当・大江広元は不安になった。広元は公家出身の学者であるため「官打ち」の迷信を知っている。
「あまり上皇の言うなりに昇進されては、いかがかと存じますが……」
 しかし、実朝は言った。
「くれるというものをもらって何が悪い。どうせ源氏の代は余で絶える。だから生前にできるだけ高位に昇って家名を上げておくのじゃ」
 実朝後鳥羽上皇の陰謀に気づいていたのである。

 実朝後鳥羽上皇に対して全く無抵抗だったわけではない。
 備後太田
(おおた)荘の利権要求を突っぱねたり、私情によって右近衛大将(うこのえたいしょう)内定を取り消された西園寺公経(きんつね)のために抗議をしたりもしてやっているのである。
 が、これらのことはかえって後鳥羽上皇や兼子の怒りを増させるばかりであった。
「差し出がましいヤツめ! 早く死ねっ!」

 後鳥羽上皇は足しげく最勝四王院を訪れた。
実朝はまだ死にそうにないか?」
「はあ。もう少しだと存じますが……」
 尊長が呪いをかけながら申し訳なさそうに言う。
 兼子が耳打ちした。
「直接殺したほうが早いんじゃないの?」
 後鳥羽上皇もそう思った。

 後鳥羽上皇は刺客になりそうな男を物色した。お忍びで自らも出かけた。
 園城寺
(三井寺)で、日夜体を鍛えている青年僧を見つけた。名を公暁といった。前将軍源頼家の忘れ形見だと聞いた。
「どうして体を鍛える?」
 後鳥羽上皇に聞かれると、公暁は答えた。
「父の敵討ちをするためだ」
「おまえは頼家が誰に殺されたか知っているか?」
「知らない」
 それを聞いて、後鳥羽上皇はいやな笑みを浮かべた。
 元久元年(1204)、頼家は幽閉先の伊豆修禅寺
(しゅぜんじ。静岡県伊豆市)にて、北条時政?によって殺されたとされている。
 しかし、後鳥羽上皇はウソをついた。
頼家は、実朝の命令によって北条義時に殺されたんだ」
 公暁はうち震えた。こぶしを握りしめた。
「そうだったのか……」
 公暁は信じているようであった。全く疑っていないようであった。
 後鳥羽上皇は内心喜んだ。公暁に太刀を与えた。
「いつか、これで敵を討つのだ」
 上皇は刀剣マニアで、御所内でも刀を作らせていた。
 公暁は太刀を受け取った。力をこめて握り締めた。
「他人に指図されなくとも、やるに決まっている」

 建保五年(1217)、公暁が鎌倉に下り、鶴岡八幡宮寺の別当になった。
 当然、八幡宮には実朝もよく参詣にくる。
 後鳥羽上皇はひそかに思った。
(これで公暁はいつでも実朝を殺せる機会を得たわけだ)

 次いで後鳥羽上皇は、実朝後の疑問を幕府に投げかけた。
「子のない実朝が死んだら、誰が将軍を継ぐのであろうか?」
 不自然な疑問である。
 実朝はこのとき二十七歳である。まだ子供が生まれない年でもないし、死ぬ年でもない。なのに幕府は反応した。
 建保六年(1218)二月、尼将軍・北条政子が上洛、西の女傑・藤原兼子とトップ会談を行った。
 この会談で、後鳥羽上皇の皇子の一人・冷泉宮頼仁親王
(れいぜいのみやよりひとしんのう)公暁の後継とする密約が交わされたという。

 後鳥羽上皇と兼子は手を取り合って喜んだ。
実朝を殺して我が息子を将軍にすることができれば、朕
(ちん)は朝廷の院政だけではなく、幕府の院政も行えるというわけだ」
 つまり、幕府を乗っ取ってしまおうという魂胆であった。

 その翌々年一月、後鳥羽上皇は大内守護(おおうちしゅご。内裏警護職)・源頼茂(よりもち・よりしげ。頼政の孫)を鶴岡八幡宮に遣わした。実朝暗殺事件の二日前のことである。
 頼茂は公暁をあおったのであろう。
「明後日の大饗は朝廷の儀式で実朝義時も丸腰。これ以上の好機はない。これを逃せば、おぬしは一生、父の敵は取れないであろう」
 公暁は決断した。
 そして、あの凶行に及んだのである。

 実朝暗殺を聞いた後鳥羽上皇は歓喜したであろう。あとは息子頼仁親王を注入して幕府を乗っ取るだけである。
 しかし、義時が事前に逃亡していたことが気になった。
義時は朕のたくらみに気づいているのではないか……」
 にもかかわらず、義時は新将軍・頼仁親王の下向をしきりに要求してきた。
「変だ」
 後鳥羽上皇は不審に思った。不安になった。
「まさか、義時は頼仁を殺すのでは――」
 「疑わしきは攻め滅ぼす主義」の義時なら、やりかねないことだった。

 後鳥羽上皇は頼仁親王の下向を見送った。
 代わりにどうなってもいい九条道家
(くじょうみちいえ)の息子を鎌倉に送りつけてやった。四代将軍・藤原頼経である。
 後鳥羽上皇は自分に言い聞かせた。
「朕の作戦はとりあえず成功した。急がずとも、乗っ取ることはいつでもできる。公家が将軍になった幕府は弱体化したのだ」

 承久三年(1221)年五月、後鳥羽上皇は幕府打倒の兵を挙げた。
 いわゆる承久の乱である。
「朕が立てば、多くの武士が味方するであろう」
 ところが、後鳥羽上皇方につく武士は意外に少なく、彼は敗れて
隠岐に島流しにされてしまったのである(栄光味」参照)

2003年3月末日執筆]
ゆかりの地の地図
参考文献はコチラ

「源実朝暗殺事件」登場人物 

【源 実朝】みなもとのさねとも。鎌倉幕府3代将軍。源頼朝の子。

【 公 暁 】くぎょう。鶴岡八幡宮寺別当。源頼家の子。実朝の甥。

【北条義時】ほうじょうよしとき。鎌倉幕府2代執権。時政の子。

【三浦義村】みうらよしむら。駿河守。幕府の重鎮。

【大江広元】おおえ(の)ひろもと。初代政所別当。公家出身の学者。
【源 仲章】みなもとのなかあきら。文章博士。実朝の側近。
【長尾貞景】ながおさだかげ。三浦義村の家来。

【坊門忠信】ぼうもんただのぶ。権大納言。実朝の義兄。
【西園寺実氏】さいおんじさねうじ。権中納言。公経の子。
【藤原国通】ふじわらのくにみち。参議。
【平 光盛】たいらのみつもり。散位。
【難波宗長】なんばむねなが。刑部卿。蹴鞠の名手。

【 尊 長 】そんちょう。最勝四王院住職。後鳥羽上皇の側近。
【源 頼茂】
みなもとのよりもち。大内守護。後鳥羽上皇の臣下。

【藤原兼子】
ふじわらのけんし。卿二位。後鳥羽上皇の乳母。


【後鳥羽上皇】ごとばじょうこう。伝82代天皇。朝廷の首魁。

歴史チップスホームページ

inserted by FC2 system