4.地獄絵図

ホーム>バックナンバー2008>4.地獄絵図

おいでませ食糧難
1.模範の農民
2.雨やまず
3.虫来たる
4.地獄絵図
5.最後の種籾
江戸時代の三大飢饉
享保の飢饉(大飢饉)…西日本
天明の飢饉(大飢饉)…東日本
天保の飢饉(大飢饉)…全国的

 享保十七年(1732)に起こった享保の飢饉江戸時代の三大飢饉の一つである。
 特に西日本の被害が深刻であり、その中でも伊予松山藩が、その中でも作兵衛一家のいた筒井村が最悪であった。
 被害状況については諸説あるが、被害範囲は西国諸藩四十六藩に及び、享保十八年(1733)一月当時で餓人九十六万九千九百四十六人、餓死者七千四百四十八人〜一万二千人、松山藩だけでも餓死者三千四百八十九人というおぞましいものだったという。

歴代伊予松山藩主 
藩主名 在職年代 石高
加藤嘉明 1600-1627 20.0
蒲生忠知 1627-1634 20.0
松平定行 1635-1658 15.0
松平定頼 1658-1662 15.0
松平定長 1662-1674 15.0
松平定直 1674-1702 15.0
松平定英 1702-1733 14.0
松平定喬 1733-1763 14.0
松平定功 1763-1765 14.0
松平定静 1765-1779 14.0
松平定国 1779-1804 14.0
松平定則 1804-1809 14.0
松平定通 1809-1835 14.0
松平勝善 1835-1856 14.0
松平勝成 1856-1867
,1868-1871
14.0
松平定昭 1867-1868 14.0

 ※ 石高の単位は万石
※ 松平勝成は藩知事の期間も含む

 時の松山藩主は、七代藩主(久松松平家としては五代目)松平定英(まつだいらさだひで。「松平氏系図」参照)
 定英は、藩の勘定奉行
(かんじょうぶぎょう。財政担当者)を呼びつけて聞いた。
「飢饉は深刻だそうだな。今年の収穫高はどれほどある?」
 享保十八年当時の松山藩は表高十四万石。実際には毎年十二万石あまりの収穫があった。
「皆無です」
「カイムとは?」
「つまり、無収入です」
 勘定奉行の返答に、定英は絶句した。
「え……? ウッソ〜! つまらぬ冗談はよせ。いくら凶作でも、五、六万石ぐらいはあるであろう」
「いいえ。領内の稲という稲は、イナゴやウンカどもが完食いたしました。ごっつぁんです」
「バカな!十万石以上の大大名が無収入なんて、ありえねー!」
「御安心ください。こんなときのために城内には備蓄米がございます」
「ホッ。それで今年はしのげるのだな?」
「ええ。殿や我々はなんとか」
「ならよい」
「ただ、領内の農民は飢えておりまする。施米をしないことには、多くの者が餓死しまする」
「してやればいいではないか」
「それをすれば、今度は殿や我々が飢え死にしてしまいます。それでもいいのなら、さっそく施米を行いますが――」
「うう……。待て」
 定英は困った。悩んだ。そして、苦渋の決断を下した。
「背に腹はかえられぬ。余は命が惜しい」

 こうして松山藩の領民は見捨てられた。
 飢えた領民は松山城へ押しかけた。
「施米を〜」
「何でもええけん食べ物をつかーせえ」
「頼む〜。死にそうなんだよ〜」
 領民たちが懇願しても、城門が開くことはなかった。

 領民は路頭に迷った。
 山で獣や山菜やキノコを探し回った。
 海で魚や貝や海草をあさった。
 みんながするので、まもなくそれらは尽きてきた。

 領民は困り果てた。
 米や麦の来年の種籾
(たねもみ)も食べてしまった。
 農耕に必要な牛や馬も食べてしまった。
 雑草やカエルや虫など、動くものを片っ端から食いまくった。

 それでも領民の飢餓が治まることはなかった。
「ああ、なんか食いてー!」
「こうなったら、自分のものも他人のものも関係ねえー!」
「生きるためだー!盗ってしまえー!」
 各所で食べ物をめぐる強盗や殺人まで起こり始めた。
「もうこんな藩、いやだー!」
 田畑を捨てて他藩へ逃亡する者たちもいた。

 味覚がおかしくなる者も現われた。
「今まで気が付かなかった。蝋燭
(ろうそく)って結構いけるよな」
「泥饅頭
(どろまんじゅう)ってママゴトで作ったことはあったけど、初めて食べた〜」
「うめえ! 壁土がうまくてたまらねえー!」

 ついには共食いする者まで現われた。
「おまえって、よくみるとうまそうにゃあ」
 ガプッ!
「いけんてやー!」
 ムシャムシャ!
「お父さん。死んじゃいけんー!」
「おまえは親のスネをかじってでも生きるんだー!」
「わかったよ」
 ガジガジ!
「痛いぜー!頼むけん、わしの死後にしてくれー!」
 まさに地獄絵図であった。

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system